二六新聞
明治27年(1894) 先づ三韓の人情民俗一切の事情を探問せずして、大言壯語沒に ○駕洛といふ國號
釜山の居留地を去る西北七里にして、金海府と號 城門頓を揭けて駕洛舊都亭門と稱す、廓外首露 府を去る二里洛東江に枕したる丘陵に、文祿征 ○駕洛食
此駕洛といふことに就て、思ひ起したることあり 如何さま然樣の事ならむ、邦俗雪花菜を「から」 ○大中小華
朝鮮の士人支那を呼びて、常に中華と稱し、而し 又支那の中華と稱するは、大中小の義に取れるに 童蒙必讀の書を童蒙先習と名つく、書中說て曰 ○石無情
京城內某氏の邸內に、人物を密刻したる、蠟石の 此近處、蠟石切人者、有否、 此塔高麗朝の遺物、石面に本邦人漁網を牽くの 石切人の問旣に好謔、答を得て解する能はず訓
4月17日
朝鮮雜記
朝鮮問題を云云す、架空の畫策事に於て何の益かある、說者紛
紛、而して一も其肯綮に當るの方略無きも亦怪しむに足らず
今此の一篇、居士が八道探檢の實歷に成るもの、一事の空言な
く半個の想像なし、未だ盡したりと云ふ可からざるも、朝鮮の
風俗記としては、敢て人後に落ちずと信す、揭げて江湖の參考
に供する所以なり。
する一都會あり、圍むに城廓を以てし、居然た
る一大鎭なり、這は三國の時代に首露王の都せし
地にして、國號を駕洛と呼ひ、大伽耶、小伽耶、
古寧伽耶等の五伽耶(殆んと慶尙道の二分の一)を
支配せし古跡なり、此地海に沿ふて最も我國に近
きを以て、神功皇后の征韓の師は、定めて此より
上陸し給ひしならむ、駕洛は伽羅なり、我國人の
外國を指して「から」と呼ふは、蓋し玆に起源せし
ものなるべし、されは國學者が「から」は空虛の義
にして我國の文物充實なるに對し、彼を卑下した
る言葉なりと解釋するは、牽强附會の說ならんか
王凌、及ひ王妃許氏の陵あり、
韓の時、黑田長政の築きたる城趾現存す、
朝鮮の風俗好むて辣味を喰ふ、魚羹味噌汁なと調
理するに、皆胡椒を加へざるなし、幼なき兒の薑
或は大根を嚙み、舌打鳴らして喜ふ態は恰も我國
小兒の金米糖に於けるが如し、是れ先天の嗜好な
るべしと雖も亦頗る奇と謂ふべし、余思ふ我國人
の胡椒を「からし」と呼ふは卽ち駕洛食といへる言
葉に胚胎せしにはあらぬか、
と呼ぶ、是れも彼の國人は馬の如く、雪花菜を
多食するより、爾かいふにあらぬか、哄笑、
て自ら小華と號す、彼の國人余に向て故國を問へ
ば、余は常に大華の人なりと答ふ、彼れ余を咎め
て傲大なりといふ、然れとも傲大と卑小とそれ孰
れか優る、
あらずして輿地の中央に位する國なるが故なりと
物識顔に辯するは彼等の常なり、余然らば貴邦は
何故に小華と號するぞと難せしに、彼れ一言もな
かりき、
く、中華の人、朝鮮を呼て小中華といふ云云、
噫子事大の風習其由來遠矣、
の五重塔あり、彼の國語に通せざる我國人、そを
見物せむものと、處處尋ね求めしも見當らざりけ
れば、深く遺憾に思ひ、道行く韓人に向ひ、
と十字を紙片に書して示しけるに、韓人怪しく首
を捻りてありしが其傍に、
石無情、焉得切人哉、蓋虛說耳、
と書き與へぬ、其人解す能はず、其筆話を携へ歸
りて居留地に來りて或人に訓讀を請ひける、そを
聞ける人人皆噴飯せざるはなかりき、
圖を刻せりと今は磨滅して判すべからず
讀を請ふ亦一笑話、 (未完)