4月27日 ○女醫
彼邦の中流以上の婦女病に罹るも、男醫に診察を 本邦婦女波濤を越え異域に投するもの多くは是 ○海州の浴場
昨冬黃海道海州に旅せし時、客舍の主人余を揖し 醫士に聞く此浴法亦一種學理に合へりと、
餓鬼道を經來て玆に焦熱地獄に落つ、生命の盡 彌次喜多の五右衛門風呂に於ける條を想起せし ●金玉均の死及び死後( 若夫れ明治十七年の失敗を以て我日本帝國の恥辱 玉均の屍は半嶋政府の嚴格なる命令によりて四 金某と朴某とは半島の叛賊なりとは其名を云はす 朝鮮國の歷史は事大の歷史にして王室の變轉は貴 爾かのみならず曾て知を玉均に得て一旦志を得ば
朝鮮雜記
乞ふことなし、縱令診せしむるも顔面を見するこ
とを羞ち、戶より手を出して僅に診脈せしむるに
過きず、且つ女醫なるものあれど、醫といふは名
のみにして傷寒論一冊を讀みたることもなく、其
內實は春を切り賣りするを渡世とするものなれば
斯る女醫のまさかの時の益に立つわけもなく、哀
れ彼の邦の婦女たるもの重病に犯さるゝ時は、見
す見す命を棄てざるべからざる有樣なり、我邦文
明日進、婦女の醫に志して業を卒へたるもの甚だ
多し、若し幸に一濤の海を航して彼の邦に至り此
憫むべき病婦を濟度しなば、其功德無量又利益も
甚だ多かるべし、我邦人京城に在留して、醫を業
とするもの三人あれども、皆相應に資産を有し、
每月平均一百五十圓を下らずといふ、
れ賣淫婦今女醫其技藝を携へて異域に遊び萬金
を積まば他の碌碌賣婬の婦も或は醫を學ぶの志
を立てんか、
て曰く近傍に浴場あり、貴客若し欲せば導くべし
と、余は數十日の旅行に一回の沐浴だもなさゞり
ければ、皮膚を搔けば垢膩爪に滿つ、蓋し朝鮮內
地の客舍一として浴場の設けあるなく、夏時なら
ば川流に浴し得べきも、時正に嚴冬復た奈何とも
すべきなかりしに、幸に此勸めに遇ひ、再生の思
ひして直に起て石鹼を携へ主人に隨ふ、主人余を
延て一室に到り、衣服を玆處へ脫ぐべきを告ぐ、
見れば室內には浴客なるべし、坐せるもの臥せる
もの合せて十數人ばかり在り、皆肉落ち骨瘦せ、
此世の人と思はれず、坐せるものは井底の眼花徒
らに光り、臥せるものは喘喘たる呼吸炎を吐くに
似たり、宛然是れ一に地獄の如し、余心竊に怪し
みけるに、主人告げて曰く、是れ近郊の病者玆に
寓して病を養ふなりと、於是余は始めて彼等は地
下の陰鬼にあらざりしを知りて衣服を脫ぎ赤裸に
なりて浴場に到る、浴場は直徑三間許なる圓形の
建物にして高さ二間許り、小石を疊みて壁となし、
其空隙を塗るに土を以てせり、家根は藁を以て葺
き、通常の家屋に異ならず、前面に一の潛り戶あ
り、余戶を排して入れば、主人は再び之を閉ぢ室
內は暗くして微光だに洩さず、されば晝忽ち夜と
變じ、咫尺は固より寸前も亦辨ずべからず、火氣
燄燄甚しく熱して恰も寒帶より直に赤道に一足飛
びせる思ひあり、心驚きながらも暗を搜りて湯槽
を求め、左索右探すれど、唯四壁の堅きに觸るゝ
のみにて何處にあるやも知れず、而るに余は指を
墮す嚴寒を經て、突然此熱鐺中に陷りたれば、忽
ちにして耳鳴り頰熱し、呼吸逼迫、心鼓昂激、眼
飛び肉融けんと欲し、其煩悶謂ふべからず、湯槽
探れども探り當てず、生命旣に危からんとす、今
や出んとすれど潛り戶の何處なりしかを忘れ、周
章狼狽辛ふして之を求め、急遽戶を排して室外に
飛び出し、僅かに命一つ儲けしを喜ぶ、主人余を
見て馳せ來りいふ、貴客好く汗せり、疾く此間に
洗ふべしと、嗚呼是れ湯浴にあらで熱浴なりき、
屋上に火を焚きて屋下に熱を取るなり、其大體殆
んど我邦の製麴室に似たり、湯槽を求めて得ざり
しこと今更怪しむべきなし、余は實に始めて斯る
浴室を見る、其驚惶知るべきなり、余は再び室外
の寒氣に觸れ、汗に湯ひたる余の鬚髯は悉く凍り
たれば、倉皇衣を纏ふて客舍へ歸れり、
きざるものは數のみ、
む、流石の豪傑も是れには一番閉口せしと見ゆ、
とせば玉均氏今回の事變も亦日本帝國の恥辱なり
といはさるへからす豈啻に玉均氏十年間の亡命に
觀倂せて日韓近時の關係に觀遂に半嶋の政權者閔
家の事情に觀て金の死を憐れむのみに止まらむ耶
刺客洪鐘宇は何人ぞ半嶋王國民の眼には國賊を誅
したる忠臣とも見らるへく報國の至誠を盡さむが
爲めに死を決したる國俠とも見らるへし然れとも
其一旦上海より歸りて王都に入り意氣軒昂揚然と
して恣に己の手柄を傲り私かに權門の間に出入
し因て以て私利を博得せむとする奸謀詐術より見
るも半島全體を愚弄し去るの材斡を抱有せる一個
の奸雄たるに過きさるなり彼は玉均と同しく落魄
轗軻十年の星霜を送了せり其謀略に經歷を有し世
波の間に投機を爲すの術數に至ては殆ど玉均と相
若けり彼は國賊なるを以て玉均を殺せりと云ふ其
謀事には李逸植ありまた當初は兪某も與れりと思
ふに玉均氏が日本の知己に一言の相談なくして飄
然上海に航せしはヨクヨクの要事ありしに因るな
らむ是に於て異評は天津より來れり曰く李中堂は
玉均を謀らむが爲めに呼べりと其間に於ける金と
洪との關係を討ねば奇幻變相蓋し思半に過くるも
のあらむ
月十四日後九時京城を西南に去る二里の楊花津に
於て首足處を異にし殘酷の法式によりて三日間梟
せられ其屍體は終に寸斷して八道に轉回せられた
り加ふるに玉均懷舊の種として殘されたる薄命の
妻子も今は用なしとて不日慘刑に處せられんとす
此時に當りて洪鐘宇は忠義の臣也愛國の士なりと
韓廷內に持囃されて光彩爛熳たるを見れば人間の
事亦謂ふに忍ひざるものあり首を回らせば十年前
安東の金氏中に堀起して半嶋の運命を廻轉せむと
したる一個の人物今や果敢なくも漢江水急なる處
半夜の冷嵐に曝されて空しく泥土に歸せんとす悲
ひ哉或は曰く金玉均の死は悲むへしと雖も日韓の
間は是より圓滑なるべし東亞三國の同盟亦是より
行はるへしと是れ蓋し多少の影響なきにあらす然
れとも天下豈かゝる愚說あらむや這般の事件を以
て對外策の好機會となし以て天下の大勢を致さむ
とは近時外交家の常に云ふ所にしてまた咎むるに
足らすと雖も此等凡へて輕佻淺膚の臆說一も取る
に足らさるなり
して朝鮮人が日常公言する文字也是れ蓋し閔家に
媚びて爾か云ふにあらず朝鮮人士は實に金朴二氏
を以て國の叛臣なりと信するなり彼十七年事件が
日本の力に依りまた其關係により一敗後金朴二氏
は支那に事大なる半嶋民の意思に背き走て日本に
投したるに因りても啻に今回の事變に關し國民一
般が喜ぶ所以のもの閔家に對して諂諛の意を表す
るのみにあらさるを知るへし
族中より押立てられたる一種の大統領制度なり故
に王室の興亡は國民の毫も關係せさる所旣往の歷
史と今日の國勢とは事大にあらずむば保持し能は
ず隨て安全なるを得ざるを以て朝鮮産出の人物中
には一の愛國家なく一の勤王家なし況むや勢道の
消長によりて其向背を定むるもの多く一日の僥倖
に依賴して百年の大計を顧みず一國の輿論は曾て
義節の邊に及びしことなく今日の官は明日の賊相視
て相笑ひ相語りて相知らす一旦知己の士落魄すと
雖恬然として冷視し是非も曲直も有耶無耶の間
に葬りて曾て心に關する所なきは古來よりの國風
なり故に玉均事件に關しても國民一定の意思を知
ること能はざるなり
與にせんと欲したるものすら今や其死を見て一言
を發せず却て日に洪の門を叩きて幾何の恩典に預
からむと欲し邀意阿諛至らざる所なき有樣は到底
日本人士の想像する能はざる所なり思ふに今度の
事變によりて半島內復た金氏の爲めに謀るものあ
らざるべし是れと同時に閔家の安全は磐石の上に
置かれたり若夫れ玉均氏の死體を寸裂して八道の
府郡に廻送し天下泰平を謳ひつゝある裏にも半島
の元氣は地を拂ひ衰亡の日は指して待つべき此の
憐れなる、國を以て今度の事變を利用して東亞三
國同盟の夢を結ばむとする者あらば余輩玉均氏の
人物が餘りに買ひカブラれたるの奇幸を祝し倂せ
て其豫想を逞ふしたる二三奸雄輩の犧牲に供せら
るべきを大笑せずんばあらず