5月13日 ○墓地
彼の邦の俗、墓地を撰擇すること甚だ嚴なり、墓地 韓人の墳墓は一の土饅頭にして、墓標もなく、石 ○人蔘
人蔘は彼邦特有の名産なり、其産地は京畿道にて 人蔘を裁培する田圃は柴垣を以て四方を園み、叨 人蔘を外國人に賣渡すことは彼邦國法の嚴禁ずる所 ○松都
松都は京城を距る十六里にあり、高麗の王都にし ○新聞紙
彼邦に於げる新聞は我邦人の手にて發刊するもの
朝鮮雜記(續)
宜しき處を得ば子孫必す繁榮すといふ、想ふに此
風俗は遠く數百年前に起りしものにして、現今朝
鮮王家の祖先は其昔し種種の困難に際し流離困頓
殆ど一家を支ふること能はさりしも、咸鏡道の香穉
山といへる名山に、父祖の屍を埋めたる功德に因
り、起て高麗に代り王となることを得たりといふ、
是れ此風俗の濫觴なるが如し、左れは倘し家內に
不吉の事あれば、必す墓地の方位宜しからさる故
ならむとの想像を畵き、相者を招き卜者を呼び、
其言を聽て新たに墓地を撰み以て更に改葬す、改
葬の禮式は一に新葬の時と同じ、
碑もなく累累として山麓野外に在るを見る、而し
て其石碑あるものに最も富有なる兩班の墳墓の
み、
松都、龍仁、兎山、忠淸道にては淸風、槐山、全
羅道に於ては錦山等なりとす、而して其最も有名
なるものを松都となす、品質好良、價格も亦貴し
人蔘畑を有するものは必す富有の人なり、然らざ
れは其裁培の費に耐へされはなり、
りに人の出入することを禁す、傍に小さき茅屋を建
て番人を置きて之を守らしむ、其田圃は地味を擇
ぶを以て各地に散在し、廣きものと雖も大槪一反
步を超ゆることなし、而して其收獲の期は八九月の
交を以てす、
にして、昔時は此國法を犯したるものを斬に處せ
しといふ、大典會通にも人蔘を日本人に賣渡すも
のあれば倭館(倭館とは釜山居留地をいふ)前に於
て斬罪に處す云云とあり、現今國法稍寬になり國
法を犯したる場合に於ても只た其人蔘を官に沒收
するに過きさるなり、されど數年裁培し來りたる
ものを一朝にして沒收せらるゝは非常の損害なる
を以て、彼邦人は容易に賣渡すことを爲さず、然れ
と隱密なる手段を設けて私に賣買をなすことを得る
なり、人蔘賣買は實に莫大の利益ある商法にして
我邦居留人の如きは之に手を出さらるは恰も見つ
ゝ寶を棄つるが如き感想を抵き居るなり、
て盛大なる大都會なり、豪商多く此處に住し商業
は寧ろ京城よりも盛なりとす、支那人の玆に住す
るもの百人に過き、吾邦人は二名の藥商と、人蔘
買入の爲め時時入込む數人の商賈とあるのみ、元
來我邦人は資本の少きにも拘はらず氣品のみ頗る
高く、內地を行商するは支那人の仕事なり、堂堂
たる日本人が彼輩と伍を爲し、毫釐を爭ふて走り
廻るは國體に關すと得手勝手の議論を爲し、毫釐
を積むで巨富を致すの慮なく、只だ投機的の仕事
を喜び、商買を一六勝負と同樣に心得居るもの多
ければ、割合に巨財を蓄へしものなく、却て彼一
文を得れば其一文をば容易に手放しせぬといふ支
那人よりも、金を本國に齎らし歸へるもの少きな
り、例令へば人蔘買入事業の如き一種の冒險を要
するものは支那人の如き着實主義の商人には出來
べからざる仕事にして、支那人は一旦日本人の手
に渡りたるものを再び買入るゝに過きず、彼等支
那人も直接に韓人と取引するの利益多きを知らさ
るにあらされざも、決して已れの常業を棄て國禁
を犯して是等冒險のことに手出すること能はす、我邦
人の冒險心は決して惡しゝと賤しむにあらされと
も、何事に限らす一獲千金の希望を以て手を出す
故、失敗と成功とを平均せば結局着實の商法より
比較上利益少き場合多し、
二種あるのみ、一を朝鮮新報といひ仁川に於て發
刊す、他を東亞貿易新聞といひ釜山に於て發刊す、
共に我邦の假名交り文章を用ふ、紙面猶未だ荒蕪
議論亦幼稚共に見るに足らすと雖も、朝鮮の時事
を知らむと欲せば兎も角も之に依らさるへからず