5月15日 ○京城の書肆
京城には書肆兩三軒あり、是等書肆の狀態我邦日 ○在京城我邦官吏
京城に居留する我邦の人民其數寡きが故に官民の ○敎育の一斑
富有なる家にては敎師を雇聘して其子弟を薰育せ ○慷慨家
皇家の末運二十四郡更無人の嘆を發するに至ては 或る日淸州の崔某なるもの、余か槐山の寓居を訪
朝鮮雜記 (續)
影町の古本屋に如かさること遠し、而して其鬻く所
は多く零本缺冊に過きさるなり、其他八道何れの
大都會と雖も書肆を見す、左れは內地の人人は行
商者が通鑑節要、孟子諺解など二三の本を市日に
携へ來るを待受けて始めて購求し得るのみ、書籍
を購ふの不便なること此の如くなるを以て、詩文章
の如きは他人の筆記を謄寫して之を講習すること都
鄙共異なることなし、彼等韓人が文化の恩惠に浴せ
さること此の如く、自ら無智蒙昧に安んす憐むへき
なり、
間も自ら和睦して萬事に就て圓滑也、されど削合
に巡査の威張るには大に喫驚したり、蓋し巡査は
月給の外に滯在手宛を取り居るを以て、殆ど奏任
官以上の生計を營み得るといふ、
しむるも、通常の家にては其子弟を所謂村夫子の
許へ日日通學せしむるなり、卽ち之を字房といふ
其他に子弟を敎育する學舍とては一もなき也、兒
童の學習する有樣は殆ど我邦昔時の寺子屋と異な
る所なきも、房內一の机あるなく、硯箱と講習す
る書藉とを有するのみ、而して初學の兒童に授く
るには人倫の大意と朝鮮史の槪略を書きたる童蒙
先習一部と千字文一冊とを以てす、之を學び終れ
は通鑑節要七冊を以てす、皆共に漢文なり、習字
は每日之を課す、其法別に手本なるものなく、黃
漆を塗りたる木板の巾一尺長サ二尺五寸許なるも
のゝ左端に古人の詩句などを書さ與へ、之を手本
として習字をなさしむ、一旦書き終れば手巾もて
之を拭去り幾回となく書き習はしむ、而して時時
淸紙に向て筆を試ましむ、時間は何時に始まると
いふ規定もなく全く敎師の勝手にして兒童は字房
を學問所とし又遊戲場とすることなれば朝より日沒
まで此處に在るなり、春夏秋冬斯くの如くなれと
も、夏時は夜學の科を設け唐詩を暗誦せしむるを
常とす、兒童の學齡は大槪十歲より十四五歲に至
る、兒童の書物を誦する樣は一誦する每に體を左
右に動搖せしめ、其觀恰も張子の虎の如く實に一
笑を買ふに足る、
國家其人を樹へさるを悔ゆとも旣に及ぶへからさ
るなり、嗚呼彼邦の今日は是れ國脈將さに絶えな
んとして僅に列國の權衡上喘喘たる餘息を保つも
のにあらす耶、苟も敵愾の志あるものは當に劍を
把りて起つへき時にあらす耶、然るに韓人の氣樂
なる朝野共に昏昏として徒らに春眠を貪り、夜來
の風雨頓に落花を促し來るを知らさるなり將た其
れ何の辭を以て評すべき、
ふ、曰く僕立志書を讀むこと玆に數年、未だ好運の
乘すへきなく、僅に兒童に敎授して口を糊し、空
しく窮巷に伏して六翮を振ふの期なし、願くは公
僕を携へて貴邦に去れ、以て普く貴邦有爲の士と
腕を交へて其高談に接し、才學を長し、爾後徐に
圖る所あらんと欲すと、余思へらく是れ或は韓人
中亦錚錚たるものにあらさるなきか、彼れ必すや
時事の日に非なるを見て自ら身を以て之に當らん
と欲するもの、好漢其志頗る嘉すへきなり肝膽を
披て相照さば又大に益する所なかるへからすと、
卽ち問ふて曰く公今朝鮮を以て太平となすか、彼
れ答へて曰く小人廟堂に在りて君子才を伸ぶるに
地なし、太平と云ふへからさるなり、余復問ふて
曰く邦家已に衰運に處す、憂國の士は當に以て其