5月18日 ●東學黨の魁首と逢ふ (承前)
嗚呼彼等は敵愾の氣あり、慷慨の志あり、尋常の 僅の談話にも多くの時間を要するは筆話の常なり 翌朝袖を分つに際し、彼等紙片に
慶尙道尙州南面居 徐丙學 と書して余に與へぬ、猶何事か言葉を添えしも解 ○喪人
粗布の衣を着け、草鞋
朝鮮雜記 (續)
韓人に非る也、韓人中の錚錚たるもの也、於是余
は言つて曰く、夫れ隣國の交に於ける、和するも
常なり戰ふも常なり、何ぞ壬辰の事を以て敞
敵國視するを要せん、貴邦此事を擧けて敞
まば、敞
するや貴邦之を導きしにあらず乎、貴邦又嘗つて
我對島を▣屠したるあるに非ず乎、然れとも是等
の事悉く過去の陳迹のみ、復問ふ可きにあらざる
なり、況や今日は是れ東亞危急の時、貴邦鼎小に
して强大の間に挾まれ、兵弱く國貧し、豈其れ汲
汲乎として危殆なるの時にあらずや、古語に曰く
輔車相依る、又曰く、唇亡ふれば齒寒しと、貴邦
の敞
區の陳迹を以て東亞萬年の策を誤るものは、哲人
と謂ふ可からさる也、貴邦の廟策を見るに溝を深
ふし壘を高ふするの策なくして、今日は淸に依り
明日は露に依る、自屈自卑、僅に强秦の保庇に依
んて、列國の間に安全を保たんとするものゝ如し、
嗚呼露淸等の兩國其れ貴邦の文明を助長し、貴邦
の兵備を堅からしめ、貴邦の財力を增進するに勉
めたるの形跡あるか、賴む可からさるを賴んて、
依る可きに依らず、知らず斯の如くんば數年を出
てずして貴邦は彼等の呑噬に歸せんのみと大に事
實を擧け、碧眼兒の信ずべからさるを說き、且つ淸
國の正朔を奉するの愚を嘲り、暗に我邦の賴む可
きを告ぐ、彼等余の言を聞きて冷然たり、其狀恰
も余を以て詭辨を弄する說客者流と思ふに似た
り、曰く貴邦の敞
を有たんや、見よ、淼漫たる水、兩邦の間を劃し
て萬里を隔つ、淸露と壤を接し境を交ゆるの關係
あるに若かざる也、公の言遠きを以て近しと爲し、
近を以て遠しと爲す、甚た誤れる哉、且つ敞
淸國に於ける、實に再嫁の婦のみ、敞
に貢を納れ、藩を稱し臣と號して以來、明朝の敝
邦を遇する、慈母の其子に於けるが如、休戚維共
にす、其恩の高くして深き、泰山渤海も及ふ可か
らず、惜哉、大明の末運南風振はず、終に社稷を
擧けて蕃人の掌に歸せしむ、我朝義兵を擧けて彼
に當ると雖も、象寡敵せざるを奈何、丙子の大敗
恨を呑んて、空しく蕃人の正朔を奉ずるもの、豈
敢て好んて爲す所ならん耶、恰も壯婦其夫を失う
て再嫁せるが如くなるのみ、是亦勢の止を得ざる
に出づ、然りと雖も有志の徒に至つては、夢寐倏
忽の間も、惡んぞ崇禎の二字を忘れん乎、却つて
怪しむ、貴邦堂堂徐市の裔を以て何を苦しみ洋國
に臣隷となりて、其正朔を奉▣腥膻を學ぶや、要
するに公の言の如きは、自が臭を知らずして他の
臭を摘發するもの、特に笑ふ可しと爲すと、余切
角蘇秦を氣取り、彼等を說服したる積なりしも、
彼等の余に聽かざる、余に圓枕の苦行なければな
り、さりとて彼も彼なり、唇齒輔車の論固より笑
ふべし、剩へ我邦を目して徐市の裔となす、彼等
の時勢に通せず、事情に疎き往往斯の如し、而し
て其自ら丈夫を以て居らずして事大を以て國是と
考へ、淸國に對して再歸の婦といふ、其情甚た憐
れむ可きなり、余は思はず失笑したり、然して其
後段語句の意外なるには頗る驚を喫したり、彼等
何を以て我邦を洋國の臣隷となし、其正朔を奉ず
るものと斷定せしか、余は暫く疑惑の中に頭を傾
けたり、漸くにして其意を悟りぬ、我邦が維新以
來、曆日制度法律を始めとし、家屋衣服の末に至
るまで、制を西洋に擬したる外形を捉へて、彼等
は大早計にも我邦を以て正に西洋の屬國と斷定せ
るなり、果せる哉、彼等は再び筆を採りて、敝邦
今淸國の正朔を奉ずと雖も、衣冠は明の古制を變
ずることなしと書き加へたり、余は大に彼の意を
解し得たると共に、平生より心に懷ける西洋摸倣
の氣にくわぬ意見は今彼等の筆によりて其極端を
道破せられたるを恥ちぬ、余が現在着て居る所の
衣服ばかりも、日本服なりしならばなど思續けた
り、されど彼等何の故を以て我皇室を徐市の裔と
叫ぶや憎む可きなり、余は余が感情を激發して至
誠之を論駁したり、彼等悟れり、余も亦心解けた
り、聞くに彼等は案外なる慷慨家なりき、自我の
觀念頗る强からざるに非れども、崇禎の二字を口
にするを見れば事大の弊習中に人となりし變則的
識見家なりき、可惜、彼等文字あるに比して時勢
に通せす事情に踈きを、されど彼等は韓人中の錚
錚たるもの也
時計を見れば旣に一時を過く、彼等寢に就かんと
いふ、余も亦數十日の旅行に疲勞を重ね、再び談
ずるの勇なし、相共に枕を擁して寢に就く、時間
と言語とに豐ならざる、彼等をして充分の理解を
得せしめざるは深く憾とする所なり
同 聞慶邑內居 朴仁炳
し得ず、定めて尋ね來よとの言なりしならん、余
承諾て打別れたりき、後東學黨といへるもの蜂起
し、人心擾擾たる折、韓廷の朝報を閱するに、不
圖徐丙學といふ字の眼に觸れたれば、以前の筆談
のことを思出し、精しく讀下せしに、彼は忠淸道報
恩に據りたる、東學黨の主領なるを以て、嚴しく
物色して獄に繫く可しとの令なりけり、嗚呼彼慷
慨の志、敵愾の氣に驅られ、遂に不平軍の主領と
なりしか、六十有餘の老翁は、實に彼の國の武田
耕雲齊にぞありける、惜しむ可し、事情に疎く、
時勢に通せず、漫に外人を敵として、虎狼の廟堂
に橫はるを知らざりしを、朴仁炳は如何にしけん
消息の知る可きなし
を穿ち、竹笠を載き、
棒端に布を縫付け、兩
手に持ち、市街を徘徊
する者は、親戚の喪に
居るの人となす、居喪
の長短は血緣の遠近に
依つて一定の法あり、
兩班は喪居中市場に出
でざる習慣なり