5月27日 ○寺院
現今の王家李氏佛を信ぜざるを以て、廢寺を再建 本堂には釋尊一體を中央に安置し、其下壇には國 松籟子曰く、彼邦人寺院に遊び平日の鬱情を慰 ○通度寺
余嘗て慶尙道梁山の通度寺に遊ふ、寺は新羅善德 朝鮮史に曰く倭寇の害は壬辰の役に過ぎて殘酷
朝鮮雜記 (續)
するは▣はずと雖も、新に佛寺を建立するを嚴禁
す、故に現存の伽藍は皆高麗以前の古刹、若しく
は廢寺を再興せしものにかゝる、寺院は大槪山間
幽谷人跡近からざるの地に在り、其規摸の廣大な
るは、本堂僧舍數十棟を有し、住する所の僧侶數
百人、倉廩充實、衣食富饒、民家の▣(僅)に雨露を凌
ぐが如き、慘憺たる光景を目にして此境に到れば
眞に別天地の思あらしむ、
王殿下聖壽萬歲、王妃殿下聖壽萬歲、世子邸下聖
壽萬歲と書したる、三個の位牌を安置し、鉦、木
魚、經帆等の配置、其▣飾恰も我邦の禪宗寺を見
るが如し、壁天井には天人菩薩の像を畵き、又天
堂地獄の圖、或は孔子七十二の弟子と諸佛と共に
天堂に在るの圖を揭ぐるものあり、每日誦する所
は國王、王妃兩殿下及び世子邸下の幸福を祈り、
國家安康の祈禱をなすに止まる、衆庶を聚めて說
敎すること絶えて無く、葬式は僧侶の關する所に
あらざるを以て、境內に墓地を見ることなし、人
民の佛に禮するものは、後世の營をなさん爲にあ
らず、唯現世の吉祥を祈るか爲なり、故に小兒を
生めば其榮達を祈り、痘疫を患ふれば其驅除を願
ふ、僧侶の髮を蓄えざること、我邦の僧侶と異な
ることなし、然れとも剃刀を以て剃りたるは稀な
り、多くは是れ門徒宗の如く散髮の俗なり、衣服
は薄鼠色のものを着し、紫、紅靑、黃の袈裟を掛く
魚肉を喫せざれども好むで葷茹を食ふ、喫煙は禁
制なれども飮酒は公許する所、女色は嚴禁なれど
も豎童を蓄ふるは勝手次第なり、詩を作り文を草
することを善くするものあるも、却て佛典に通曉
するものなし、座禪堂の額を揭けたる室あれども
唯老僧の貪眠室たるに過ぎず、一山の組織は小共
和政治にして、僧統令監なるもの其主領たり、上
下皆自力に食み、釀母、扇子、團扇等を製造して
之を民間に賣り、或は大工となり、或は左官とな
り、各其得る所を積んて一山の經濟機關を動かす
されど僧侶の品格は甚た賤しく、俗人に對しては
叩頭平身、一語といへど苟も發せず、眞に乞丐の
待遇を受く、噫噫佛敎の振はざるは法にあらずし
て僧に在り、彼の邦の僧侶は莊嚴の尊ふべきなし
焉んぞ法輪を轉して一切衆生を濟度するを得ん、
南北西漢山の寺院は、一種の軍隊組織より成り、
大將僧之を統一す、國に事あるの日は干戈を執つ
て兵士となるなり、
む、恰も我邦人の溫泉、海水浴に於けるが如し
我邦に本地垂跡の說あり彼邦亦孔子及び諸哲を
佛に配す、其揆甚似矣、
王の創立する所にかゝる、樹木鬱蒼、巖石峨峨、
頗る形勝を占む、寺側に釋迦の頭舍利及び袈裟を
藏するの石室あり、寺記に曰く、倭寇あり之を發
き、盜んで以て本國に歸らんとす、倏ちにして風
雨晦冥咫尺辨せず、電閃雷擊、盜卽ち斃ると、而
して舍利及び袈裟は再び寺へ還りしといふ、其他
八道の王陵古墳、倭寇の爲に發堀せられざるもの
殆んど稀なり、金海府の首露王の陵の如き、倭寇
の害を蒙ること一回にして足らず、由來記書して
神兵起つて之を平ぐといふ、誰か知らん八道の古
器皆倭寇の掠むる所となり、王陵古墳は皆是れ空
蟬の脫殼なることを、
なりと