6月3日 ○牧業
山の半腹に石塀を繞らし、恰も昔時の城廓とも思 牧牛には格段に牧場といふものなく、七八匹の牛 山羊、豚は到る處に畜はざるなし
彼の邦人は馬肉を喰はず、然れども牛肉は甚だ之 ○今や氣全く死す
今の朝鮮は明の援助に依り、高麗に代つて八道に ○地券狀
彼の邦には地券狀といふものなし、故に地所家屋 頃者釜山及び京城に於て、地券を發行して、家屋 ○絶影島
釜山港頭に橫はれる島を絶影と名つく、想ふ昔壬 初め明治十七年の暴動の償金を韓廷へ返與せし ○上疏
專制の國體ながらも、儒敎國たるの形見を殘し、
朝鮮雜記 (續)
はるゝもの、到る處に多し、是れは昔時馬を牧し
たる處の廢跡なり、現在の牧場も亦是れと同じ、
八道の牧場は總て官府の支配する所にして、監牧
官なるものをして之れに主宰たらしむ、牧馬は總
て野畜にして、玄冬の寒き夜も、三伏の暑き日も
敢て小屋懸けすることなし、又別段に食料を與ふ
ることなく、孶尾も自然に任せ、唯其繁殖するを
待ちて之を捕へ、人民に賣渡すものなり、されば
彼の邦の馬は其形小なれとも、其性頗る慓悍なり
とす、而して之を買ひたる馬は、己れか家に養ふ
て善く馴らし以て使役に供す、恰も封建時代の相
馬藩に於ける牧馬と同じ
を蓄ふ家を最大牧牛家となす、慶尙道の牛は其形
あまり大ならざれとも、他道の牛は我邦の南部産
のものよりも大なり、總て彼の邦の牛は其性甚た
溫順にして、能く耕作に服するなり
を嗜めり、屠牛は各國郡縣一定數ありて、此定數
を越えて屠殺することを得ず、又屠殺するには一
頭に付き、若干の錢文を官府へ納めされば許可を
得ること能はず、此法たる元來牧牛を保護するの
政策より出てしものなるべけれど、今は唯徒らに
貪官徵財の資とはなりたり
君臨するを得たるなり、加ふるに壬辰の役亦明の
援助を借りたるが故に、明と朝鮮との關係は愈水
魚の誼を固うするに至れり、然るに滿洲の豪傑、
愛親覺羅、劍を提け起つに及むて天下一兵なく、
明朝の祚は遂に胡人に移るを致せり、朝鮮王肅宗
義之れを傍視する能はず、大に中原を恢復せんと
するの志あり、徐恥菴の智は能く兵糧を蓄へ、金
仙源の勇は能く胡兵を退くると雖も、胡軍長驅し
て漢陽にせまり、國王蒙塵して難を南漢に避くる
に及んで、空しく遺恨を呑むて款を通するの止む
なきに至る、當時朝鮮の元氣を知るべきもの、一
絶の存するあり、曰く
白頭山石磨刀盡、豆滿江水食馬無、
男子二十未平國、後世誰稱大丈夫、
嗚呼今や朝鮮人、此詩に對して恥ちざるもの、果
して幾人かある、上下昏昏氣旣に死せり、噫噫
を賣買するには、別段登記登錄等の繁縟なく、至
つて簡便なりとす、又家屋を賣買するといへば、
地所は勿論附屬して賣買することなり、而して後
日故障等のなからしめん爲に賣主は買主に讓渡
證を交附するなり
を外國に濫賣するの弊を防がんとせしが、是れも
例の地券を下附する手數料を、徵集せんとする貪
慾の考より思出せしものにして、濫賣の弊は今日
猶ほ昔日の如し
辰の役に、李舜臣玆地に據て我水軍を退くるの地
となす、山腹我居留地に面して一祠あり、祠は李
舜臣を祠つる所、我國人呼むて朝比奈の社といふ
孟浪も亦甚しといふべし居留地の埠頭、丘陵高き
處に又一祠あり、加藤淸正を祀れり、居然舜臣の
祠に對す、蓋し維新前對州侯、我邦の武を揚げん
が爲に建立する所なりといふ、絶影嶋を我邦人は
牧の嶋と呼ぶ、十數年前までは牧馬場なりしが故
なりとぞ
時、韓廷大に喜び此嶋を我邦へ贈らんとせしに
我使臣は辭して取らざりしといふ、今や韓廷其
要害なるを知り、我邦も亦先に之を辭せしを悔
ゆと聞く、此說或は信に近し
昔ゆかしくれもはるゝは、下情上達の趣意にて、
人民の上疏を受理し、勅裁を下すことにぞある、
これも腐敗の結果として、中間に立つ役人が之を
隔てゝ、國王の聽聞に達せさること多かるべきも
形式だけは甚だ備りあるなり、先づ上疏せんとす
ることあれば、同志の者連署して白紙に事の由を
詳に書き、之を紅絹にて卷き包み、同志相携へて
王居の門へ到り、机の上に此上疏狀を置き、其前
に蓆を敷きて、晝夜其上に坐し、上疏文の受理せ
らるゝを俟つなり、東學黨の人人が、黨首崔某の
冤に死したるを訴へし時も、亦斯の如くせしなり