6月10日 ○雜俎
○陜川郡の海印寺は慶尙道の古刹なり、經藏十二 ○日本の器物彼の邦に入つて、其用を異にするも ○僧侶は京城門內へ入るを得ず、若し入る時は嚴 ○京城南山(一に木覓山と號す)の麓羅洞といふ ○竹山府邑傍の山に小西行長の築きたる城跡あり ○梁山領東院より院洞に向つて步すること三里に ○金海首露王の妃許氏は天竺の人なり、曾て海を ○豆腐は彼邦にてもテウプといひ、燒酎をソチユ ○疫神除の爲にとて村端れに七五三繩を張る、我 ○咸鏡、平安、江原、三道にて屢土中より石斧石 ○京城欽差公署の傍に大なる銀杏樹あり、正に數 ○彼の邦の馬は小にして、對州馬といふに似たり ○彼の邦は國帽、國服、服色、總て一定せる國な ○平安道なる大同江の船は木綿帆なり、他は皆蓆 ○彼の邦人は大槪二食なり、夏は日長き故に上流 ○瓜、西瓜の熟せる時は、米相場下落し、我邦人 ○桐蔭煮茶などど詩には作れど、八道中にて茶を ○疫病にかゝりたる牛は敢て殺すことをなさず、 ○彼の邦に脯肉といふものあり、牛の肉を薄く切 ○彼の邦人は我邦人の人に對して禮儀を施すに當 ○衆人稠座の中にて、蝨を捫り或は放屁するも、
朝鮮雜記 (續)
棟あり又義經辨慶五條之橋の圖を藏す、何れの時
何れの人より傳はりけん知るに由なし。
の多し、例之ば湯わかしを酒つぎとなし、雨傘を
日傘に用ひ、茶碗を燒酎盞となし、飯椀を茶椀と
なすの類なり。
罰せらる、是れ壬辰の役に我兵を導て京城へ入れ
しは、僧侶なりしが故なりといふ。
處に加藤淸正が陣取りたる遺跡あり、韓人今猶ほ
倭城と呼ぶ。
山上に正方形の巨石あり、征韓の役に兵士無事に
苦しみ、戲れて刻む所なりといふ、總て韓人は不
思議なる事物を見れば、壬辰の時に日本人が造れ
りなど唱ふれども、未だ一槪に信ずべからず。
して、大斧を以て削れる如き、千仞の石壁の中腹
に、一小洞の圓形にして深さ一尺、直徑三尺許な
るものあり、昔時玆に黃金佛の重さ百斤なるを安
置せしが、壬辰の役日本人に掠め去らると傳ふ、
信すべからず。
航して此地に着きたる時、錨となして持來りたる
石塔の殘遺、今猶陵前に保存せらる、信僞知るべ
からずと雖も頗る奇古、眞に數千年前の遺物なる
か如し。
といふ兩つのもの共に彼の邦より渡來せしものか
邦と似たる風俗なり。
鏃を出すよし、余曾て其堀出したる石鏃といへる
を見しに、我邦にて見る所のものと異なることな
し。
百年以前のもの、征韓の役に小西行長、曾て馬を
繫ぎしものなりといふ。
牛は甚だ肥大にして西洋の乳牛に劣らず。
れば、我邦の如くに流行といふものなし、萬事は
保守主義なり。
帆のものを見るのみ。
社會にては三食。
の菓子屋を業とするものは、殆んと閉店同樣の姿
なり、是れ韓人好むて瓜、西瓜を喰ふが故なり、
道路の排泄物は色靑くして瓜核充ち充ちたり
産するの地なし、總て我邦と支那とより輸出する
もの。
人家を離れたる河畔へ連れ行き、生死を天に任せ
置き、空しく萬一を僥倖するのみなり。
りて乾かしたるものにして、行軍用、旅行用とし
て最も携帶に便利なるものなり。
り、其脫帽を笑ふ、却て帽を戴て傲然たるを喜
ぶ。
彼の邦人は決して無禮なりとは思はず、可賤的習
俗。