6月10日
朝鮮の擾亂 (續報)
(京城近信)
◎總勢四萬餘人 東軍兵器の多くは全州監營を
陷れたる時に掠奪したるものなるが同監營にあり
し銃砲は僅かに千餘に過ぎざれども官軍にして賊
に降りたる者は悉く銃砲を携へ居るを以て全州落
城後の東學黨は其の勢實に猛虎の檻を脫れたるが
如く沿道の壯丁にして彼れに與みする者日に其の
數を增し目下其の總勢四萬餘人と見受けたり而し
て土民の壯丁は多く木刀竹槍を携へり
◎運動敏活 東軍に下りたる官軍の多數は獨逸
若くは佛國の新式を練習し多少軍隊の進行組織等
に熟し居るを以て近來東學黨の運動は頗る敏活と
なれり
◎兵糧に苦しまず 東學黨の中には豪農紳商と
呼はるる者も多少味方し居り且つ武威を恐れて米
麥を給與する者少なからざれば彼等は更らに糧食
に差支を生することなし
◎眞相明かならず 朝鮮の各地方官は大に東學
黨の勢に恐れ中央政府に向て頻りに援兵を請へり
彼等が東學黨の景況を中央政府に報告するには針
小棒大を常とす故に賊軍內部の摸樣及び其の實力
等は京城在住の者には確知するを得ず
◎安撿使派遣の中止 昨年忠淸道の懷仁に東學
黨の亂起るや中央政府は魚允中を安撿使として派
遣したり允中數十の兵士を引連れ懷仁に出張し恩
威を以て百方彼を慰諭し遂に解散せしむ木年又政
府部內に允中派遣の說起りたるやに聞けど今日と
爲りては到底溫言を以て解散せしむること能はざる
を知り安撿使派遣の說は中止したりと
◎擾亂の起點 東學黨の擾亂が當初革命など云
ふ大目的より起らずして地方官の暴橫に出でたる
ことは事情に通する者の齊しく認むる所なるが全
羅道古阜郡守の失政が第一の導火となりし者の如
し抑も古阜郡は廿八村落より成り土豪多く土地肥
沃にして農産物に富み茁浦、鹽所、東津、沙浦の四
港に積出し仁川、釜山との關係極めて薄き土地柄
なれど八道中一の樞要なる箇所なり、郡守姓は趙
名は秉甲夫の咸鏡道防穀令の事に就きて其名を知
られし趙秉式の甥なり、昨秋古阜地方は豐作なり
しに秉甲は俄かに令して防穀令を布けり而して自
から親近の者に命じて米幾千石を買收せしめ奇利
を博し且租米徵收に際し虐政を擅にせり然れば昨
年十月の頃には旣に民心の動かんとする兆ありた
り韓曆甲正月十日(我二月十五日)東學黨五百東津
の津頭に勢汰を爲し年齡十四五才位の少年も打交
り皆徒步跣足にて郡守の城門に闖入し其寢所を突
かんとしたり是れより先き郡守趙秉甲は其危難に
瀕せるを偵知し單身遁亡して鄭某の許に寄り其救
護を求む某は郡下の名族なり斯くて秉甲は服裝を
變じて井邑に逃れ遂に全州監營(完營)に投じ監司
に謀り一千の兵を借りて亂民を鎭壓せんとす監司
肯んぜず直に之を韓廷に報じて其指揮を待てり此
際亂民に加盟せし村落旣に十有五、全軍一萬餘に
及たり、亂民の首領三人あり曰く全明叔曰く鄭益
瑞曰く金某而して明叔最上位に居り鄭、金の二名
は之に佐たるものゝ如し