8月11日
●馬嘶劍鳴錄 (承前)
八日 朝南原出發、六里余にして淳昌に着し、
始めて東學黨五百余人に會す、是までは風
說のみにて一人にも逢はざりしなり、南原の官吏
等は東徒を指し善人と公言せり、蓋し東徒を憚り
てならん、
雲峯の彼方が慶尙道、此方が全羅道なり、慶尙の
民の人氣スレテ惡きに反し、此邊の民は撲實眞に
憐む可し、例へば余り五月蠅く寄來る故、威かし
に撲つてやれば、傍人は笑て見て居る、敵意寸毫
なし、其代り性無しで又寄て來る、蓋し此種の民
は獸に近きが故に、恰も犬は仲間の一匹が殺され
ても平氣なれど、自ら撲らるれば直に悲鳴するが
如くなるなり、
一行の先驅淳昌に着するや否や、東學黨の斥候早
く旣に探知し居りしと見え、此地同黨の次將來り
迎へて禮遇慇懃なり、此處よりスグ六里前の南原
にては、淳昌あたりに二三千の東徒が居るソーナ
位の噂だけなりしを思ひ出し、朝鮮人のノンキに
驚きたり、
一行の本志を▣▣に告ぐれば、彼等流涕感謝殆ど
再生の思を爲す者の如し、此地東徒の大將は金奉
均(此男余程宜し、淸き神經質の、シカシ確乎た
る人傑也)次將は金曹監なり、此二人との筆談口
話數を知らず、
ソコは韓人故、右の東徒の領袖等も釜中に在りな
がらノンキで居る、ソーかと思へば至誠貰天地の
精神あり、眞に民軍の…………、イヤハヤ日本民黨
の諸公に此▣▣の精神だけを持たしたならば……
との感慨も起る、
東學黨の首領等に直接に聽きたる同黨の歷史、其
組織、其儀式、其呪文等を左に略報す、又彼等が
我一行に送りたる文書あれば送る、
東學黨の起原、變遷
今より三十年前、崔先生なる人物あり、始めて東
學を唱道し、學徒として相結ぶ、初は公黨なりし
も、陽明學に佛敎を加味したる如き學說なりし故
政府の忌む所となり、爲に崔先生は殺されたり、
是より勢の止む可からざる公黨の性質漸く變じ來
りて陰險の黨與となり、段段蜂起は始まれり、昨
年報恩でやつたのも、今年起つたのも皆一素なり
と、
鉢卷は樺色、黃色、靑色あり、部署に從てて區
分する者の如し、衣服は赤勝ちの玉子色の麻布
なり、上下皆一樣、
肩にしたるは火繩銃にして、腰にしたるは藥筒
と火繩なり、 (未完)