11月9日
東學黨の眞相 (二)
天眼生
東徒の巢窟
虛喝は韓人の常なるが中にも、東徒の牛耳を執る 抑三南は卽ち他の五道にかけ合ふと稱せらるゝ富 崔時亨と全明叔
東學黨に二人の總大將有り、一を崔時亨と調ひ、
連中は多少野心家なれば、殊に虛喝に巧にして己
が黨勢を誇稱し、朝鮮八道到る處我徒を以て充滿
せり東西相應じて起たば、幾十萬人立ろに集るべ
しと揚言すれ共、實際本據堅くして團結整ひ居る
は、烏
全羅道の海岸卽ち古阜扶安羅州長城等の地方にし
て其他は頭領に人傑を少く故にや微微聞ゆる莫し
京城の近傍なる安城溫陽等にも同徒の存在するは
確實なれ共、先つ其邊が止りにて、大體に於て東
徒は三南を本據とし、其他の諸道には寥寥たりと
斷定し得べし、
饒の地、大院君が嘗て三南の衆を得ば以て天下を
制すべしと言ひし程の處なれば、現在の役人原を
押し退け己れ取つて代らん抔、いふ野心家も自ら
生ずる道理にて、東徒の首領と爲る人人には無論
其邊の氣込みも有るべし、又一方より觀れば、斯
かる土地柄迚、競うて膏血を狙ふ役人共も重もに
此地方を目指すを以て、人民の疾苦は別けて著る
しく、不平凝つて東徒の群を成すこと自然の數と謂
ふ可し、則ち斯かる因緣に依てこそ此地方特に東
徒の氣燄を添ひけめ、經綸の眼を以て朝鮮に莅む
の人、能く此邊に注目して虛實を知り緩急を悟り
以て民を撫し士を致すの術を獲ずば協ふまじ、
一を全明叔と云ふ、崔は則ち前項に說ける尙州及
び報恩地方を總轄し、全は則ち全羅の海岸地方を
直轄す、聞く全は古阜に生れ崔は慶州に生ると
各其鄕里の近傍を經營し、德を積むて嶄然黨員中
に頭角を顯はし、多年相結托して圖る所有りし者
の如し、而して崔は年長と云ひ祖師と姓を同ふす
る點と云ひ、黨員の尊敬殊に厚く、一時東徒の首
領は斯人なるべしと評されしが、其行迹に照して
鑑識するに、全の識見技倆及び問學の力遙に立ち
優る所有り、實際の方略は一に全より出るを覺ゆ
蓋し昨年報恩に起りたる一揆は卽ち崔の煽動に由
りしが間もなく消滅し、今春古阜に起れる東學黨
は旗擧げの當初より勢ひ猖獗にして終に全州を攻
め落し、端なく日淸韓三國の大騷動を惹起すに至
れるが、是は全明叔の終始指揮する所たり、事の
大小、志の伸否は時勢にも因る可けれ共、腕前と
云ひ熱心と云ひ右の事迹丈にても優劣を徵し得可
き歟、殊に注目す可きは報恩の東徒は日本排擊の
檄を飛ばしたりしも、全明叔等は毫も期かる事な
く、只管生民の疾苦を訴へ、諄諄として政府に迫
り肅肅として三軍を驅り、重もに地方行政の更革
を主張せる點にして、崔は舊習保守を主とし全は
濟民を急とす、彼れ全明叔は假令腹裏には多少擊
倭思想を蓄ふるにせよ、濟民の手段未だ成らず、
政府の實權未だ手に歸せずして、遮二莫二日本
を敵とし、好んで詭激の名を速ねぎ敵を外に作る
愚者にあらず、徹頭徹尾仁人君子を以て立て切つ
たる彼れ、若し奸雄なり共、愛す可きの奸雄なり
這段は卽ち彼れの貫目崔の上に在るを證すべし、
尤支那崇拜の心は二人共に同し、又○○君が保守
的氣慨有るに私淑し、陰かに氣脈を通ずる抔は二
人共に爲しかねざれ共、开は自ら別問題に屬す