11月11日
東學黨の眞相 (四)
天眼生
訴願の要旨及び
對外思想の情致
東徒の訴願は二十箇條程あり、主として地方行政 飜へつて東徒の對外思想を觀察するに、國家の觀 東徒が對外思想の情致は此邊に推知するを得可し 去れど東徒が淸將に通ぜしは、畢竟諺に所謂苦し 東徒が意氣の度合
東徒の實體は不平的平民黨に存し、東徒の性格は 東徒の成立は尋常の百性一揆と異なるを以て、血 東徒が淸將と通ぜる事情
東徒の性質及び意氣の度は以上說く所の如しとす 右の事迹は牙山の戰場に散逸せる將官等の用
制度の大革新を迫る、其要を碎いて申せば、冗制
廢止と租稅輕減とにして、以て彼等が經綸の本領
を見るに足る、蓋し官人と云ふ者無爲無能、墜ち
た橋一ツ架けず、倒れた死人一人片附けず、只收
斂を畢生の業とすれば、一邑に一人有るも尙多き
に過ぐる者なるに、道の探題たる監司が大槪大爬
みに民の財産を奪ふ其下に、府司
令長官)
(郡長)
とも賄賂とも附かぬ一種の御用金を八方より取立
て、否めば忽ち栲問以て威嚇し、七重八重に民の
膏血を絞るが中にも、轉運營と稱する貢米徵收の
役所の如きは、錢儲けの本局にて、貢米の頭をハ
ルのみか、過重の賦課を人民に申し付け、半分以
上も懷に呑むを常式とする抔、人民の困却は筆紙
に盡くし難し、東徒は此邊の難儀ヒシと身にこだ
え居ると見え、善くも適切に冗官廢罷の諸項を要
求せり、殊に轉運營廢罷之事と云ふ一條抔は隨分
思ひ切たる改革案と稱す可し、新政府の大臣誤つ
て是等人民の情誼に適切なる改革の劇藥を度外に
措き、却つて官稱及び風俗の變更等を先とせば、
曷ぞ民怨を醫するを得む、心せよ後見の方方、東
徒が熱血戲れには濺がれざる也、
念未だ完からざれば對外思想迚確乎たるべき筈無
けれども、纖微の中に之が情致を討ねば、恰も我
往時の攘夷の俤を認め得可し、訴狀中這般の意志
を表はすは密貿易禁止之事及び國太公(大院君)攝
政之事なる二條に在り、密貿易は如何なる文明國
も均しく禁遏する所なれども、東徒の意は『脫稅
の結果として國の實利を損し經濟界の秩序を紊る
が故に之を不可とす』抔云ふ邊より出るに非ず、
寧ろ『倭人來て我貴重の米穀を買收し去るが爲め
に、米價騰貴して諸民難澁を來たす、一旦凶歉あ
らば夫れ之を奈何せん、目下の急は先つ差當り密
貿易を禁止するに在り』と云ふ點に基けり、蓋し
全羅の海岸は條約外の地に於て米穀の輸出盛なれ
ば也、扠又彼等が大院君の攝政を冀望する由緣如
何と云ふに、一▣には苛政の本源たる閔家を戮滅
するの目的上、王妃の深仇たる大院君を推すなれ
ども、更に一原因は大院君が頑强にして舊習を保
守する氣象を尊敬するに在り、蓋し大院君が曾て
夥多の基督敎宗徒を一時に刑殺し、日本人を擊退
けたる等の無謀の擧は、東徒の眼には如何にも豪
傑らしく見ゆるを以て、彼等縱令ひ絶對的に鎖國
攘夷を期せざるも、其强がりエラがりの心は彼等
をして東洋仁義の敎を守て大朝鮮の體面を保たむ
には、此豪傑を戴くの外無しと思惟せしむるに至
る耳、
とすれば、則ち彼等が韓人の通有性たる支那崇拜
の感情と和して、一轉忽ち斥日の擧動と爲り、奇
怪なる波瀾を惹起すに至るも亦一呼吸の機會に存
するや知るべし、近日の事豈夫れ此機會を我に制
せざるの過なる莫からむ哉、
い時の神だのみに由る者にして、本來日本人を敵
視するの念慮奪ふ可からざるより出るに非ず、彼
等は己が目的を達するの手段、及び己が身の安全
を得る方法として淸將に泣き付こそせめ、少なく
共全明叔の在る限りは、少なく共純粹東學黨丈は
日本擊排の爲めに彼等の內政更革の本願を犧牲に
供して已むことは之無かる可し、
妄信的頑固質に成り、攻めんには力未だ足らず、
守らむには勢餘り有り、便ち一方に割據して以て
太た大なる能はず、以て太た微なる能はず、方に
進退の中途に懸かりて、而して體と性との割には
智識頗る淺薄なるの致す處、往往にして苟合小爲
山火熄むて復た倏ち燃ゆるが如き觀有り、作用未
だ完からざれば、則ち外界より來る便宜は何時に
ても彼等をして起たしむべく、偶然に生ずる機會
は忽ち彼等をして日本の味方とも支那の味方(特
に支那の)とも化せしめ得べき事情は、前數回述
る所に依て明瞭なる可しと雖ども、尙一應の參酌
を要する點は卽ち彼等の意氣の度合是れ也、
性氣配普通の韓人と同視す可からざること勿論なれ
ども、其意氣の度は亦朝鮮人の尺度內に在て高し
とするのみにて、之を我維新前後に在りて、慷慨
山を拔き悲憤鼎鑊を甘しとせる浪士一般の熱情に
擬するは、少しく釣合を失する者たるを忘る可か
らず、卽ち彼等は閔家が憎くしくしと切に怨めど
も、單身匕首を懷にして京城に入り▣▣を狙ふこと
例へば水戶浪士の井伊大老に於けるが如くなる能
はず、尋常の訴願にては改革の素志貫徹す可から
ざるを悟り、乃ち謀叛めきたる擧動に出で乍らも
キツパリ押切つて革命の檄を飛ばすこと、長州武士
が卒先孤立討幕の大義を斷行せるが如くなる能は
ず、去り迚强ち官兵に遇うて鋒を交へずして逃る
ゝにもあらず、隨分時によりては▣▣しき振舞も
有り、徒黨して官に迫れば首がないことは知らぬに
非ず、旣往の所作健氣と稱すべし、畢竟未だ剛を
極めず而かも終に柔に墮ちず、國王に對しては飽
迄恭順なりと云ふ名を失はざるに汲汲として、以
て半ば歎願半ば脅迫、萬一敗れたる折にも根を絶
たるゝ迄のお咎め無き樣、豫戒する者の如く、殊
に祖國支那には到底背く可からず抗す可からずと
觀念するが爲めに、支那の聲が掛かれば一言なく
腰を折り、淸兵來り征すと聞けば『不屈なる淸國
かな、一二奸臣の暴威を助けて我我人民の進路を
妨礙する彼れ外兵、イザ協はぬ迄も刃向ひ吳れむ』
と意氣込むべしと思はるゝは、日本士人の了見以
て他を料るに止まり、當人の東徒に在ては其れ迄
に至り得ぬのみか、卑陋にも彼れに泣付くべし、
但し彼等日本の强きを悟る曉には日本に對しても
必定其通り也、蓋し是れ大國と國王とには到底協
はぬと覺悟し切つたる、韓人特有の事大兼卑屈の
遺傳性に由る者にして、臣子の情、弓を王廷に彎
くに忍びずと云ふ忠義心に出る譯にはあらず、詮
ずる所彼等が意氣の度合は先つ中位にして、埒明
かぬ乍らも一片の精神を有し、局部革命黨とでも
稱すべき一種の民軍として、日本志士の眼には齒
痒ゆきこと限り無けれど、韓人の分際より云へば、
先つ賴母しき一類と見る外なく、其眞價、ふみ倒
しても不可なり、買ひ冠つても宜しからず、則ち
能く王道の原則を解し經綸の識を具えて而して東
徒を視る者は、必ず自ら損ぜずして而して之を取
り、舍てずして而して之を矜らしめざるの道ある
を發見せむ、
れば、則ち彼等が無緣極まる日本人に賴らずして
己れが畏敬する淸將に賴り、最初は訴願貫徹の手
段として淸將に縋るの意、日淸開戰の後には斥日
の行を釀し來ること情理必至の事と謂ふ可し、今其
事迹を尋ぬるに、全州退去の後未た幾ならず、全
明叔等は書を牙山なる淸將に送り、辭を卑くして
情を陳して曰く、『會生等本來泣冤無告の氓、比日
官に愬ふる所有りて京に上らむとす、而して官兵
無情、敢て會生等を射擊し、空しく死する者千餘
人、會生等旣に重課厚斂に困むて饑渴日に迫り、
退いて父母を養ふ能はず進むて斧鉞の誅を見る、
乾坤身を容るゝの地無し、而して何ぞ圖らむ趨舍
軌を愼まざるが爲めに、遠く中國大人諸公の來鑑
を煩はさむとは、會生等實に恐悚已む莫し、大人
諸公仁慈明鑑、咎むるに會生等の罪を以てせずし
て而して憫むに會生等の志を以てし、乃ち天兵境
に臨むて會生等玆に窮鳥の幸を辱うす、感悚銘肝
終生何ぞ記せざらむ、乃ち會生等上疏の要を謄寫
し以て左右に捧呈し、伏して大人諸公の裁を仰き
謹んで仁慈無彊の德を謝す』云云、淸將は書を見て
頗る東徒の憫むべきを悟り、使者を延いて懇談の
榮を與へ、威を示し德を售つて東徒を懷づけたれ
ば、東徒は逸早くも淸國と通ずるの機を啓き、爾
後交通數回、日淸間の戰機漸く動くに及むでは、
淸將は益益深く東徒利用に意を致したりと見ゆ、
具文書の一なる學士鍾少林と記名したる日記
中、及び其他に右往復の文を寫し、又は事柄
を記し有るに依りて彌彌確實を證し得たり、
因に云ふ鍾少林は葉の祕書官にてもやあらむ
李中堂よりの電報の寫し抔も見えたり、(完)