11月21日
●朝鮮の一活火
(東學黨の實體觀察) (承前)
在韓 紫陽生 東洲生 稿
東學の宗義竝に目的
余等は旣に東學の性質は純然たる宗敦なることを
述べたれば讀者は必す問はん其宗義は如何其目的
は如何と東學の宗義は儒佛仙を合したるものなれ
ば務めて三道の種種の名目を同一に皈するの解釋
を取るに汲汲たるは勿論にして別に一機軸を出し
て舊套を超出したる新案あるに非す其舊に仍りて
各其美を擇はしむるものゝ如し然るに大方針とし
て一あり曰く輔國安民なり夫れ佛は彼か如く菩薩
行なく儒は朱子の外に學あるを知らずして退守獨
善を本分とし敎義一も活氣なく姑息の最姑息なる
時運に際し此方針を取りて進取の氣象兼濟の志を
皷舞するは一大見識ありて舊來の敎義上に一新面
目を開きたるものと謂はざるべからず故に彼等の
集會する處は之を濟衆義所と名け殺を忌む彼か如
くにして敢て決然として戈を執ること此の如し然
らば則ち東學なる宗敎は厭世に非ず獨善に非ず進
取兼濟の主義を取りて大に政治思想の分子を含め
りと謂はざる可らず
然れ共彼等は頑然たる守舊家にして頂を摩て踵に
至るまで分毫も國風を保存せんと欲す而して各國
の關係の如きは分毫も之を知らず洋を排し倭を斥
するは彼か對外の目的たり國瘼を癒療するは彼が
內治の目的たり而して一夫も其處を得ざれば己れ
推して之を溝中に內るゝが如しと思ふは彼等か其
宗敎の限內を踰へて動もすれば主義の實行を試み
んと欲し黨を成し群を作して政府に逼る所以なり
曰く廣く衆を濟ふに在り曰く義を見て爲さざるは
勇なきなりと
余等の全明叔を濟衆義所に見し時彼云ふ我我は敢
て亂を作すに非す我我人民は殿下に訴願あり官人
內に居りて我我の情を察せず輒ち我我を劫殺す故
に已むを得ずして兵を帶ふるのみ豈戈を執りて君
父を劫すものならんと惻惻として愛君の誠を表し
たり然らは何故に兵を帶ひて地方を巡り官家を脅
し其衡行を恣にするやと問へは訴願一朝にして達
せす且らく民瘼に忍ひすして縣邑を巡り弊政を革
罷すと又余等は曾て彼等に對し痛く朝鮮の弊政を
指摘し閔家の罪を數へしことあり全明叔以下言ご
とに腕を扼し甚しきに至りては一座手を揚け聲を
發して激賞す最後に余等言ふ閔族して此失擧あり
て生靈塗炭義士切齒するに至らしむるものは誰か
之をして然らしむる殿下の不明乃ち然るに非すし
て淸國公使袁世凱實に之をして然らしむるなりと
彼等是に至りて顔色頓に其欽喜の色を消し寂然と
して暫く言なし是れ其彼等か事大なる情念に違ひ
たれはなり彼云ふ淸軍は我我の匪徒に非さるを知
りて兵を却けたり云云と彼等か訴願の條目中最後
に我三港を閉ちんと欲するの目あり又最終に大院
君の攝政を請ふの目あり而して余等の東學黨を見
んと欲するの趣旨書も黨內何物か淸軍に內通の漢
ありて之を寫したるものゝ牙山敗兵の手にありし
を發見したり然れは彼等か義氣と內政の方針は輔
國安民の誠より出てゝ且つ目擊直受する弊なれは
時事に痛切なる條件多かりしも對外の點に至りて
は朝鮮外には淸國あるを知るのみにして別に列國
あるを知さるは所謂井蛙の見にして遂に頑迷の譏
を免れざるは可憐の至りと謂ふべし
抑事大の情念は單に彼等のみ然るに非ず朝鮮國其
物事大の情念を以て成り立てるなり李氏開國五百
年終始一貫今日に至りて尙ほ事大なり李成桂の遺
訓に曰く西は禮を失はず東は信を失はざれば李氏
の天下は萬載ならんと全明叔か如きは其祖訓を確
守するは固より當に人に勝れて堅かるべく大院君
の攝政を請ふが如きも守舊に聯接せる事大の念は
其中に包含せりと謂はざる可らず余等曾て朝鮮衰
弱の原因を探究せしに李氏の事大の政略は衰弱を
來せし原因中其最に居るを發見せり今は東學の目
的の觀察にしあれば論及せすと雖も此情念を一掃
せざる間は到底此國の强國となる可らざるのみな
らず我國は常に隣邦として徒らに煩累を蒙るを免
れざるべし
東學の組織黨風及び運動
東學は其宗義よりして此目的を抱き且つ此國に發
達せざる可らざる性質を有したれば其目的は發達
と共に宗敎の分限を踰へて政界に勢力を逞しうす
るに至りたり一地方濟衆の集義は年を追ふて民擾
の俑を作り一片紙の訴願は一派の人心を聳動して
終に一國の大事となれり然れは其敎會(敎會の名
義は無けれ共便宜上假稱を附したり)の組織も人
員の增殖と共に漸次に整頓したり
其組織の方法は慶尙道尙州を大本部として大接主
崔時亨常に此處に在りて各府郡縣の各接主を統管
すと云ふ各府郡縣の接主は各洞の提綱を率ひ上大
接主に協贊して下一般の信徒を運動せしむ而して
一接主獨立の運動は萬已むを得さるに非されは之
を決行することを得ず提綱は各其洞に住して一洞
の信徒を代表し其宗務の任に當る故に大接主一令
を傳ふれは十日內外にして十餘萬人を起たしむへ
く一接主一議を發すれは十餘萬の耳に洽ねし然れ
共平時は各家業に從ひ妻子を養ひ毫も平人に異な
ることなく一朝事あれは袂を連ねて輒ち起つ而し
て其起つものは一地方の事には一地方の信徒に止
むること多し唯本年白山の擧の如きは各地より集
合したるものにして田宅を賣りて起ちたる者多き
は生還の意なきを決したれはなり是れ君側の姦を
淸めて訴願を透徹せんと欲する一國の大事なれは
なり其軍にあるや接主は通常の衣冠を着け劍を帶
ふるあり半弓を携ふるあり兵卒は皆衣ありて冠な
く白巾を以て頭を裹み盡く火繩銃を提け肩に濟衆
義所の朱印を捺す隊伍自ら嚴肅にして觀るへきも
のあり余等か觀たるは全明叔の部卒三百餘にして
其實に訓練したる部下は三千人なりと云ふ其武器
は皆古く各府の官庫に藏まりたるを借りたるもの
なりと言へり
余等は全明叔等八人の接主を知れり思ふに十餘萬
の多き各部によりて各其風を異にし接主も夥多な
れは其人物も一二を以て類推すへきに非さるへし
然れ共全黨を動かして一派に嚮慕摹倣せらるゝ全
明叔の一部は則ち一部の標準たらさる可らす故に
之を標準とせは以て全黨の風采を想定すへきなり
全明叔の人となり誠實にして其事を處する敏活な
り全羅の軍略蓋し皆全明叔の方寸より出つると云
ふ余等多く朝鮮人に接したれ共未た明叔の如き君
子を見す又明叔の如き識見家を見す若し斯人をし
て文明の事を知らしめは必す彬彬たる英傑の士な
らん然るに余等と接見する每に必す合掌して禮を
作し他の接主も亦之に倣ふて合掌せり殊に接主の
一人なる金普賢の如きは余等の一人泥路に脚を失
ひたるを見て親ら起ちて其鞋紐を解き其足を洗ふ
に至る數百の銃隊を率ゆと雖とも更に殺氣を帶ひ
す殊に兵卒と雖とも手首に念珠を掛るは宗敎軍の
特風といふへきか
彼等は全州を京軍に渡して一時其衆を解散したり
然れ共先師の讖言に甲午七初出雲峰といふことあ
り故に是歲七月の初めには衆を雲峰山下に會して
師の出世を俟つと(鄭道令の神力のことは道路の
妄說にして其童子すら烏有なり)後ち期に至り果
して衆數萬を會したりと云ふ又聞く韓廷改革の後
黨首(崔時亨なるか全明叔なるが詳かに知らす)は
孤身を以て京城に入り大院君に上書して云ふ我我
の目的は姦臣を掃ひ太公を起すにありたり今所志
旣に達したれば宜しく國法に正さるへし唯り憂ふ
へきは我我刑に就かは十餘萬の徒亦亂れんも未た
知るへからす然れ共唯太公の裁する所にありと大
院君は皆問ふこと無らしむと云ふ然るに彼等今復
各地に起れると聞く余等心甚だ疑ふ或は眞の東學
黨には非ざるべし然れ共大院君の一言あらば彼等
十餘萬は固より死を輕して同時に起つべきは余等
信して疑はざる所なり
以上記する所は讀者をして彷彿の間東學黨の實相
を想定せしむるに足るものあらん若し之を以て讀
者參考の萬一に供するを得は余等困頓の旅苦亦少
しく償ふことを得む (完)