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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
二六新報 이륙신보
  • 기사명
    明治27年 12月 22日 變服間諜日記 (三)
  • 이미지
    prd_0130_214 ~ prd_0130_217 (214 ~ 217쪽) 이미지
  • 날짜
    음력 1894년 11월 26일
일러두기

12月22日
●變服間諜日記 (三)
安達如囚

(朔寧方面より平壤に進む)

八月廿八日 鷄鳴一鼓更に勇を鼓して城櫓を下
り市街に入る、豚など屠りたる跡あり、四肢を解
きたるまゝにして餘は惜氣も無く棄置く樣、吝嗇
坊なる韓人の仕業にあらず、淸兵玆に來れりとは
早くも察せられたり、余は此近傍に淸兵宿し居る
ならんと想ひたるも甚だ恐れざりし、時に余の考
は此淸兵は昨日宋院里にて水ビタシとなりて銃も
劍も水に葬り、纔に身を以て免れたる淸兵なりと
想ひたれば也、況んや余は當時急先鋒に讓受けた
る備前長船の名刀を佩みたればなり、則ち民家に
就いて淸兵の所在を問へり、曰く日兵襲來の報を
聞いて今朝未明江東の方向に走る、人數は八人な
りと、宋院里の聾翁の話より數の一人多きは翁の
勘定違ならんか、以上檢察の結果は余をして種
種の想像を懷かしめたり曰く

一、淸兵は中途糧食の困難よりして戰鬪隊形を採
つて退却する能はず、勝手次第に分裂し、勝手
次第に掠奪して腹を充しつゝ退却せり、

二、淸兵牙山の敗後一定の退路を撰定せしものか
なれど、吾兵が朔寧に駐屯するを聞きし以來は
兵士の勝手により何處を經過してなりと平壤に
來れといふ如く放任的に退却せしものゝ如し、

三、勢右の如きを以て退却の途上、吾兵に逢ふて
素より應戰の氣槪も無く又用意もなし、故に吾
兵近傍に來れりと聞かは其數等を問ふに遑なく
例之ば二百人の淸兵は直に離散し、箇人的に逃
走潛匿す、是を以て吾兵は之を其退路に擊破す
る能はず、若し敗兵を迎擊せんと欲せば寧ろ探
偵然たる伍を結み一一捕獲するに若かず、

四、且つ韓人は頗る淸兵の掠奪に苦しむ折柄吾兵
朔寧に駐在し處處に偵察斥候を放つを以て淸兵
迂路を取り吾兵鋒を避くるの情狀を知り、淸兵
を嚇すに某の里に日本兵五百人屯せり、某の村
に數千人在り抔、虛言を吐いて淸兵を吹飛ばす
を以て吾堂堂の陣は遂に彼の畏縮敗殘の兵を見 るを得さる也、

余は則ち直に谷山の府廳を訪ふ、府使某淸兵の掠
奪を恐れて遠く京城に逃れ去り在らず、曾つて支
石里にて草鞋を與へたる司令出て來りて大に余を
饗す、此地の名産なりとて且つ煙艸を贈らる、余
は則ち向後淸兵來らば其詳細を伊川府使に報告す
可きを命じ伊川まて引返す、午後十時頃伊川に着
此日先に平康にて二百の敵に追擊せられたる斥候
の報告を領し朔寧より該地に電馳したる第七中隊
の本間中尉は此地府廳に在り、和逢ふて見聞を報
告す、本間中尉嘆じて曰く淸兵怯怠一兵を交えざ
るに吾が影を見て四離五裂二百人の兵盡く蛛の子
を散すが如く散り了れり、嗚呼無馱骨を折れりと
嘆息す、余は眞田流の花火筒にザラ玉を込めて逃
け散る眞中へ打込めば如何といふ、中尉曰く、マ
ヅ雀を打つにはザラ玉必要なりといふ、談話しな
から報告を書き了つて本間中尉の報告と一束とな
し之を朔寧本隊に送りて宿す、

八月廿九日 夜來より細雨降りしきりしが早朝
發足の時に到つて天候俄に暴風雨と化し道路泥滑
大に行進を害せらる、前に吾五中隊の駐在せし院
村にて小憩兎山まで敎導を傭ふ、蓋し大隊より報
告あり、大隊は新溪に進行せりとの事なれば之に
會せんが爲め道を玆に採りし也、然るに此敎導實
は道を知らず、濫りに迂路を取り吾か隊大に苦し
む、兎山に着したるは殆んど夕刻なり、則ち本間
中尉と共に官廳を訪ふ、縣監李某階を下つて接す
始め兎山縣監淸兵の爲めに糧食を募る、吾大島混
成旅團之を聞き少佐某を該地に馳せ、之を押收し
て將に縣監を軍法に處せんとせしも、情狀を酌
量して將來を誡め去る、故を以て日本兵を遇する
甚だ謹める也、此夜薪柴を集め來らしめ、官衙の
中庭に焚き各衣服を乾す、

八月卅日 出發の行裝して朝來より吾大隊の到
來を俟つ、蓋し吾大隊は此邑內を通過するの報告
を齎し來れるを以て也、俟つて午前十時に至り大
隊の先衛來る、則ち吾本間中尉は兵士を門前に整
へて大隊の來るを俟つ、此日復晴陰常ならず、風
又雨、加るに昨日以來の天侯は細溝を化して河と
爲し道路を變して泥田と爲す、吾兵士をして坐ろ に行路難を感ぜしめたり、俟つこと暫時にして一群
の隊伍は整整列を正うし風雨を衝いて到る、中に
富田少佐をも見受けたり、聞けば我朔寧支隊は砲
工步兵騎各若干宛を增加し柴田中佐支隊長の命を
受けて後列に在る也と、共に行進して兎山市場に
宿す、

八月卅一日 兎山市場を發して陷井里に宿す、

九月一日 陷井里を發し朽橋着、

九月二日 朽橋を發して新溪縣に入る吾支隊は
數日該地に滯陣の目的なるを以て徵發等に遑なし

九月三日 新溪滯在第二十一聯隊五中隊本部を
訪ふ、該本部は則ち新溪縣刑房を以て充てられた
り、故に刑律に關したる圖書を多く藏せり、就て
大典會通を讀む、他事なし、

九月四日 新溪滯在午後四時頃、柴田支隊長よ
り命あり、旅裝を調へ、早刻來れと、行けば遂安
を經て三登まて偵察す可しとの事なり、則ち直に
出發す、晝夜兼行僅に暫く露宿して遂安郡に着し
たるは則ち翌朝四時頃なり、

九月五日 遂安にて吾支隊の先發として向ひた
る第十二聯隊の第四中隊あり、隊長を淸水金生氏
といふ、余を迎へて三登まて敵情を偵察するの委
囑を爲し、且つ、筒井軍曹を韓裝せしめ余と同發
せしめたり、此日吾斥候騎兵遂安を經る一里ツエ
ンミ峴下に敵兵の駐在するを睹擊したるの報告を
齎したるを以て淸水大尉は淺田中尉を分遣し、復
哨を張り來往を警戒する等頗る嚴重なり、余は命
を領し直に三登に向ふ、ツエンミ峴に至る頗る戒
心あり、路を諦視すれば圓形なる馬蹄の痕跡縱橫
無數算を亂して印せり、以て吾が斥候騎兵が齎し
たる報告の眞なるを認む、則ち峴を下り民家に就
いて敵情を探るに敵は騎兵のみにて二百名許な
り、日兵遂安に在るを聞き栗里場まで引きたりと
いふ、則ち前進して金礦洞に至り栗里場に入込の
方策を議す、時に後方より喪笠を戴きたる〓〓予
等と同裝なる〓〓韓人來りて予等に挨拶す、打見
やれば一人は二十一聯隊の軍曹にして一人は其通
辯なり、相逢ふの奇遇を談し、其檢察の方向を問
ふ、曰く祥原に赴くなりと、蓋し栗里場は則ち祥
原及び三登の岐路なるを以て該地迄同進を約す、 此通辯甚だ小膽、坐作默止の間も淸兵怖しといふ
念に打勝つ能はざるものと見え予等偵察の方法を
議するの間も街後の小丘に上りて四方を展望す、
是れ却つて予等の幸福なりし、予等は又栗里場入
込に付いて四人肩を騈べて大道を闊步し進むは策
の得たるものに非ざるを以て田間の細徑を通じて
ちりぢりに進むに決す、冷井洞近傍まて進みし時
は殆んと黃昏時なり、則ち四人は洞後の松山に會
し行李を解いて搆帶口糧と稱する糒を嚙む殆んと
生米を嚙むの感あり、時、日漸く暮れて星斗は燦
然たる光輝を放ちて蒼空を飾れり、然れども四顧
は是れ却つて暗暗漆黑の如法夜なり、

是迄の如く分離して進まば前進の中途相失して緩
急の場合に應ずる能はざるを怖れ、斷然四人竝進
するに決し、喫煙及び談話を禁したり、斯る折し
も馬の嘶は聞えぬ、漸く人の足音も聞えたり、山
陰より松明の光は顯れぬ、敵か將又韓人か未だ見
定めの付かぬ內通辯は已に側なる大根畑の中に驅
け入りて早く驅込めと招ぐ、予等は此地より栗里
場まて半里許なるを知るものから若し敵該地に在
らは哨兵は必ず此邊より遠からぬ處に居るを悟り
一先祥原街道より來れる一群の人馬を通過させ、
而して後處置を爲さんものと、通辯に續いて大根
畑に避けたり、人馬漸く近つく、星先には定かな
らねど喋喋して言語は正しく鴃舌の漢語なり、馬
に跨りたるは六七人も居りしか、步するもの十人
に過きず、松明をかざして敎導するものは韓人也
此等の者去つて那地に向はんとする、追躡して之
を窺ふに彼等は我兵の行進を妨げんが爲めに橋梁
等を破壞すべき命を受けて冷井洞迄來りしものな
るを知れり、予等は栗里場まて進まば正に彼等の
夾擊に逢ふ板挾の境に入らざる可からざるを以て
栗里場を距る十丁余なる陵洞の山腹に露宿しぬ、

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