12月26日
●變服間諜日記 (六)
安達如囚
九月十二日 午前は爲す事も無く暮せり、午後
一時頃支隊長は直に出發して平壤まて入込み偵察
を爲す可く命ぜり、相携ふるものは則ち山口大隊
の軍曹田鍬氏と爲す、余は謹んで命を領せしもの
ゝ、余の運命は此行の成否に因つて定まるかを思
へば、何となく物寂しく、知己の人人に蔭なから
訣別を爲し、例の如く喪笠を戴き韓服を着けて上
途す、三登より麥田店の間は已に元山支隊の斥候
も出で居りたる事なれば警戒の必要も無く足の步
に任せて進み夕陽嶺に沒する頃麥田店に着く、麥
田店は大同江の上流に沿ひたる酒幕洞にして戶數
僅に三四に過ぎす、江畔懸崖の上に搆へたる一棟
の家のみは淸冷の波に臨んで風致頗る掬す可きも
のあり、元山支隊の某工兵中尉十余人の兵と共に
先つ玆に在り、余等は就いて同宿を求めて室の一
隅を借る、此夜月澄んで蟋蟀床に在り、立上る水
煙は淡く對岸の燈影を漏らして、風物盡く蕭條た
り、余は田鍬軍曹を顧みて、此家の摸樣何となく
梁山泊畔扈三娘の酒舖の趣ありといふ、傍に在り
たる中尉は莞爾、其水筒を指出し、麻痺藥玆に在
りといふ、一同破顔して共に三盃を傾く、時正に
十時頃なり、則ち寢に就く、半夜耳を欹つれば、
對岸處處に犬の遠吠、聲喧すし、余は忽ち敵兵密
に對岸に兵を進めたるなりとの想像を起しぬ、則
ち眠れる人人を搖起して、其推測を聞くに、中尉
はナアニ氣遣無し、彼は吾が十八聯隊が成川より
派したる斥候に向つて吠ゆるならん、君等心配な
しに寬然眠られよといふ、余は少し怪しまぬにあ
らねど、斯かる場合に氣息めいふ可き譯なければ
余も亦其氣になりて再び臥し眠みぬ、
九月十三日 滿天の深霧殆んど咫尺を辨ぜず、
同行の田鍬軍曹は此機に乘して彼岸に達す可しと
主張し、十八聯隊が上流に於て徵發したる小舟僅
か四人許を容る可きに乘し、工兵を勞して操櫓せ
しむ船底の空隙より水漏れ、水練を知らざる余を
して、大に狼狽せしめたり、余は怖る怖るバカチ
と稱する瓢簞を縱割にして拵へたるものを採り、
之を汲出すの任に當る漸くにして彼岸に着す、河
畔の白沙を步して僅に道路を進めば百戶許の村落
あり、而して居民は僅に數ふるに足らず、是れ亂
を避けて遠く山谷に遯逃せし也、予は直に一翁に
就いて、昨夜犬吠の何の故たるを尋ねぬ、曰く倭
奴麥田店より渡舟し來れるが爲めならんといふ、
此翁余等を淸人なりと誤認し日本人を指して倭奴
と貶し甘心を買たる積なる也、余等同行二人は却
つて彼の日人を知らざるを喜べり、則ち余は彼を
相手として敵の情狀を知る可き談話を試みたり、
曰く倭奴の麥田店に在るもの何人許なりや、翁曰
く、倭兵麥田店に來つてより舟隻を彼岸に繫ぎ我
等を渡さざるを以て詳しく知らされども四五十人
に過ざる可しと、又問て曰く、余は密に成川府の
倭情を察し潛行して再び祥原に赴かんとする也、
知らず玆を距る幾里程の地に大國兵駐屯し居るや
翁曰く詳しく知らず、風說には昨日來二里程なる
接境亭(!)と稱する地に數百人屯在すといふ
神經なる環堵以外の事は知らさるを常とす)
想ふに此兵は則ち此江を扼して吾支隊の行進を妨
拒せんとするものに似たり、然り夜來の犬吠は正
に其準備として斥候を派し、吾兵の有無を探らし
めたるが故なるを知られたり、於是大道直進の危
險を察し、山腹より展望しながら行進するに決せ
しかど、時已に十時積霧漸く晴れたれば大道を闊
步し敵影を見ば則ち避げて山上に攀登りて展望を
恣にすべき方針を採り、進行くこと里餘、忽ち見る
數十步の外、敵兵は轡を竝べ、列を整へ堂堂とし
て此方を指して進み來る、予等は期したる事と言
ひながら、此一刹那の現象にはいたく一驚を吃し
たり、予等は忽ち右側の胡椒畑に身を避けたるも
敵に悟られたる心地して、一處に居堪らず頭に戴
き居たる喪笠を右手に搔込み、一目散に驅け出す
敵は益近きたり、蜀黍畑、粟畑の嫌あるべき、息
も吐かずに逃げ出せり、噫戲自若として胡椒畑に
居りたらんには、彼等予等を韓人と思惟して無事
通過す可きに、拙きものは丹田心氣の定まらぬ余
等の一行、聲立てゝ鐵砲むけらる雉子の境界、余
等の狼狽は却つて彼等の疑を惹き前驅の數騎は
手綱を搔繰り、地煙立てつゝ馬の頭を余等に向け
たり、余等は必死となりて、脫を計れり、天幸と
は何ぞ、蜀黍畑は馬の驅御を妨げて、余等が小松
の茂れる山麓に逃げ終ほせたる時は、彼との間隔
殆んと二百米突にも達したり、余等は命を拾ひた
る心地して山背を通して麥田店への方向を採り農
笠山と稱する小峯の中腹に出で敵の數と敵の擧動
とに注目せり、蓋し農笠山の中腹より麥田店を距
る殆んど四百米突にして今しも吾が工兵等は江畔
に在りて破舟を修理しつゝある樣杯は手に取る如
く見え敵兵とは三百米突を隔りて彼等が措置擧動
も判然と見えたり、