12月20日 十七日午後七時十五分仁川發(揭二三六)
仁川より應援として派遣の中隊は洪州にある海美 仁川 伊東兵站司令官 十七日午前十一時仁川發(揭二三七) 軍路調査隊の一行及び護衛として派遣せる桑原少 仁川 伊東兵站司令官
●東學黨討伐公報(承前)
廣島特派員電報(
方面に遁れたる賊の再擧を圖るを知り去る五日枝
隊を進め賊數百を捕へ五十餘名を斃す此枝隊は九
日洪州に歸り暫く此地に滯在せしめ附近の急に應
ぜしむ、中隊は十日洪州を發し海美、瑞山を經て
泰安に到り該地方の義勇兵を召集し賊を半島に押
籠め數百名を捕へ三十餘名を斃す首魁は悉く縛に
就き或は斃る故に將來此地面の賊は再び起るの憂
ひなかるべし泰安より海美に至る地方の官民共に
我軍隊を犒ひ天幕を張り小屋を設け酒肴を供へ庶
民は自ら荷物の運搬に從事し之を名譽とするもの
ゝ如し大に我軍の威德に感ぜり右十四日德山村中
隊長の報告唯今達せり
川上兵站總監宛
尉の小隊は一日復東を發し京城に向ひ居る途次六
日靑山に達したるに其附近に若干の暴徒あり依て
之を擊退す八日文義を發し淸州に着す十日同地發
の筆記報告に據れば八日の夜半文義の方向より數
萬の賊淸州に向ひて進み來るとの報に接し應戰の
準備を爲し九日午前愈愈彼の前進を聞き淸州附近
の要地を守り之を擊破す賊の死者二十餘名負傷者
無數我兵には死傷なし又大砲二門、火繩銃四十餘
其他彈藥槍等を分捕りたり賊は南方に向ひて退却
せりと其報告に依り考ふれば中路に在りし南少佐
及び其部下は公州の方位に進み西路の隊と合した
るものゝ如し
川上兵站總監宛