●釜山近信
◉韓人の日本化 大邱府の兵站部に久しく駐在
せし某軍醫此頃歸釜せしを以て就て同地の狀況を
聞くに同地方は最初日本人を視る蛇蝎の如く日本
人さへ見れば石を投じ爭鬪を挑む等甚だしき不人
氣なりしが客年十一月來野戰病院監の訓令に依り
韓人の疾病者を無料にて施療する事となり其當座
は一人も之に應ずる者なかりしを醫員は百方誘導
して一人を說き二人を諭し賴むが如く治療を施せ
しが其效驗の顯著なるより次第に相傳播し去十二
月中の外來患者三百卅餘人あり彼の男子を見ること
を厭ふ深窓の女子も今は來りて治療を受け居れり
と而して醫員は是等の患者が大勢集まりたるを期
とし日日通辯をして我 天皇陛下の仁慈なる汝等
の不幸を哀れみ我等をして來つて汝等の病を療せ
しめ玉ふ旨懇篤に說示し彼等が報酬にと持參する
金錢は勿論肉類鷄肉等一も避けて受けざるより彼
等は非常に其恩德に懷き今は通行の際も危險の慮
なく日本人を見れば直ちに進んて敬禮を施し又た
病院に向つては我 天皇陛下の仁德遠く異國の小
人等に及ぶ我等何を以てか之に報じ奉つらんとの
意味を書したる感謝狀を呈する者續續ありとぞ
◉朝鮮の婦人 韓人治療は獨り大邱のみならず
到る所の兵站病院に於て實施しつゝあり何れも其
恩惠を稱せざるなく殊に當兵站病院には日日數十
人の患者來り時には院長自から其家に就きて病を
診する事あり兩三日前予は用事ありて居留地界ま
で赴き歸途田中軍醫に逢ひしが軍醫は馬上より予
今より韓人の病氣を診せんとす君同行せずや患者
は中中の別品なりとの言に予好奇にも軍醫と同行
して其家に至れり病家は電信局主事尹某と云ふ者
にて患者は某の妾なる傾城上りの女なり先づ四疊
半計りの內に入る是れ主人の室なり四邊には簟笥
に行李、火鉢、机、溺器、煙草入、等を雙べ行李
の上には絹蒲團二枚と比翼枕とでも稱すべき二人
枕を置き其狹くるしさ言はん方なく漸く膝を容る
ゝに過ぎず軈て燐寸とピンヘツドを出し主人自か
ら火を點じて客に與ふ了つて妾君珈琲一椀づゝを
侑め夫れより診察に取掛りしが軍醫も予も韓語に
熟せず片語交りにて分らぬ時は筆談を以てし漸く
診察を了りしが其子宮病と云ふこと片語にも筆談に
も分らず軍醫も大に閉口の摸樣なりし又た其翌日
も用事ありて兵站病院に至りしが折柄輿に乘りし
美人來る院長云ふ是れ種痘に來りしなり一見すべ
しと已にして此跡に續いて化物然たる女ども七八
人各各可愛らしき小兒を抱き來る今橋兵站司令官
も亦た此所に來り合せ是等の小兒を抱き取り頰を
スリつけ髯を引かせなどして樂しむを韓婦ども呆
氣に取られて見て居る樣可笑しく美人は恥かし氣
に直視せず耳隱しの帽を被りたる儘橫を向て默し
居りしぞ床かしき
◉全羅道木浦の地形 當國新開港場として第一
着に開かんとする全羅道西南隅に位する木浦の實
地檢分を爲したる京城領事內田氏の一行は該地の
蹈査實見を了へ過日潮洲府號にて當港に來られた
り今同船に乘込み居たる知友某の話說を聞くに木
浦の地勢たる東南に面し港灣水深くして巨船も海
岸に碇繫するを得る天然の良港にして港口の前面
に珍島を控へてあれば何風にても灣內に在る船は
安全なり特に該地方は海陸の産物に富み居るを以
て新開港場となるや日韓貿易上に一層の盛況を來
すに至らん今回內田領事には古阜にも立寄られ同
地の蹈査檢分をも爲したるが古阜は木浦に比し地
形狹小にして且つ港灣も好良ならず領事が態態此
港に立寄り實地を取調べたるは木浦と孰れが優る
か其優者を開港場にせんとの考案を懷き居たるや
に聞くも到底古阜は木浦に及ぶべきにあらざれば
依然新開市場は木浦となるべしと云へり