●支那負傷兵の慘狀 北淸日報の報ずる所によ
れば舊臘尾三百人の支那負傷兵は大連灣又は旅順
より天津に到着したるが其多くは刀劍銃傷の爲め
よりも寧ろ寒氣の爲に苦められたるが如し此中容
體危篤の者のみ病院に入るを許され其他は各一兩
づゝの旅費を受けたるが此の金額にては歸鄕する
能はざること明かなれば彼等は行く行く掠奪を行
ひながら鄕里に向ふ外なきなり戰場に於ける支那
兵の困苦は病者傷者を救護するの組織是れ無きに
よりて想像するを得可し前記の負傷兵の如きは山
海關より滊車に乘らむが爲に二百英里以上を旅行
せざる可からず重傷の者は斯る長途を旅するに堪
へざるが故に路上に倒れて凍死を待つの外無きな
り此の如き取扱を受くる兵士戰を欲せざるは尤
の次第にして世界第一の精兵も之が爲に役に立た
ぬ者となる可し近頃滿州より倫敦に送りたる電報
に涷死者の屍體山の如しとありしも虛談ならざる
可しと云へり