1月31日
開城府の反亂、民衆が惡德官吏を殺傷
朝鮮京城通信[一月二十三日發] 開城府
民亂詳報 松都の民亂に就いては、これまで
每便報道せしことなるが、當地我が領事館は
去る八日、巡査渡邊鷹次郞氏を同府に派し事
の實際を探聞し、兼ねて同府在留我が商民の
財産をも保護せしめたりしに、氏は同十三日、
歸京の上復命する處ありたり。さてその民亂
の原因を聞くに、同府留守金世基は兼ねてよ
り人民を遇するすこぶる苛酷にして、本官李
春興と心を一にし、或いは苛稅を徵收し、暴
虐以って賄賂を收め、府民皆堪ゆるあたわず、
一同不平の折柄、去る韓曆十一月中、同府の
金滿家十余名に向かって種種の難題を云いか
け、ついには無法にも捕えてこれを獄に下し、
金數十萬兩を納むべしと强迫し、しからざれ
ば所有の人蔘圃を納むべしと命じ、日日の嚴
責に堪え兼ね、殊に有名なる豪家甲斗山なる
者は、旣に七萬兩を納めしにも係わらず、な
お放免せらるるの模樣なく、苦痛の極ついに
自殺を企て咽喉を刺したりしが、幸いに死に
至らざりしと云う。府民はこれらの事どもを
傳聞するや激昂はなはだしく、なかんずく同
府の俠客金司果燻伊及び趙守門將の兩名は、
貪吏を誅して良民を救うべしとの旨意を以っ
て、三萬余名を煽動し、同月十八日、官廳に
押し寄せ廳舍を破壞し、官吏を殺傷するに至
れり。留守金世基は早くもこれを探知し、そ
の前京城に逃げ上りて難を避けたりしも、本
官李春興は暴民の捕うる處となり、身體隙間
もなく亂打せられたり。暴民はいよいよその
暴を逞しくし、獄を開きて囚人を放ち、各所
に集合して毫も解散するの色なく、事態すこ
ぶる穩やかならざりしを以って、政府はまず
柳禮烈を以って中軍となし、韓曆十一月二十
二日、京城を發して同地に到り、百方鎭撫に
盡力せしより少しは解散の模樣ありしも、な
お二、三百名ずつ各所に屯集し、政府向後の
措置を伺うもののごとく、按覈使朴用元氏も
十二月二日、來着して事情を探り、もっばら
事の平穩ならんことを勤め、彼等に向かい新
任留守李耕植氏の來着を待ち萬事を處理すべ
ければ、向後は決して亂暴の處爲あるべから
ずと慰諭したるを以って、當時はまず鎭靜に
屬したれども、政府の處置いやしくもその當
を得ざれば、再擧をなすに躊躇せざるべしと
云う。さてまた右變亂の起るや、同府在留我
が商民等は、或いは仁川に或いは京城に遁れ
歸り、早くも遺留財産損害を要求せんとし、
その金高を以って領事館に訴えんとしたる向
きもありしが、渡邊巡査がかの地に到り實際
を見聞したる處によれば、外衙門より命令あ
りしとかにて、嚴重に番人を附けてこれを守
り、市中には日本人遺留の財産を掠め、或い
は毁損せし者は嚴刑に處する旨を貼紙し、な
お通事或いは主人これを保護すべきの告文あ
り。いずれも同文なるがその一を揭ぐれば、
左のごとし。
癸巳十二月初四日
開城府南門內姜石家寓、賣藥商日人宮崎順
次所用藥料器械類、衣服、什器、着實看守、
日後一品閪失の弊有るごとし、すなわち担
當の意戒めて手標の事。
通事 李奇守
右のごとくにして封印等はそのままにして、
もとより閪失等の事あるべくもあらず。同地
人の話には、日本人は貨物を遺し紛失せしめ、
過當の償金を貪らんとすと云う者あり、今渡
邊巡査が實地を探偵する處によれば、損害は
被害本人の稱道するがごとき三百円や五百円
の實價あるものは更になく、大槪百円內外を
出でざるもののみなりしと云う。かくのごと
くんば實に兩國の感情に影響を及ぼす鮮なか
らざることなれば、向後大いに注意すべき事
どもならん。