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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
時事新報 시사신보
  • 기사명
    明治27年 6月 8日
  • 이미지
    prd_0131_020 ~ prd_0131_023 (292 ~ 295쪽) 이미지
  • 날짜
    음력 1894년 05월 05일
일러두기

6月8日
暴徒の首魁は崔時亨――上海紙の報道

近着の申報(淸國上海發行)に揭ぐる朝鮮
東學黨の記事を見るに、曰く。京城よりの郵
書によれば、暴徒の巨魁は崔時亨と呼び、尙
州の人なり。自から偉太夫と號し、一味を部
下に集め、よって以って大いになすあらんと
したれども、時至らず志を得ず、空しく韜晦
して時機を窺う。その中に仲間追追增加し來
たりたれば、まず旗を古阜だ樹て、ようやく
四方に侵略して、忠淸道の東南、慶尙道の西
北に至る、實に近來未曾有の變亂なり。黨衆
は稱して五、六萬を超ゆべしと云うといえど
も、各州、各邑に出沒して聚散常なく、官軍
ほとんど拒ぐあたわず、官の火藥庫を燒き、
官の兵器を奪い、あたかも無人の境を行くが
ごとく、また兵食としては各邑の官穀を取り
居民と宿怨あるものは意に任せて殺戮し、ま
たその財貨を奪掠して去りて顧みず、黨中の
小頭はことごとく各邑小吏の亡命者を以って
これに充て、頭に黃巾を戴き、身に黃衣を穿
ち、旗幟また黃色を用い、勢いはなはだ猛く
全州の各營兵一もこれに當るものなく、亂黨
の過ぐる處、郡守、縣令、府使、牧使の別な
く皆放逐されたり。しこうしてその擧兵の名
義は四あり。一に曰く、人を殺すなかれ、物
を傷うなかれ。二に曰く、忠孝雙全、世を濟
い民を安んぜん。三に曰く、洋倭を逐滅し、 聖道を澄淸せん。四に曰く、兵を驅りて京城
に入り、ことごとく權貴を滅して大いに綱紀
を振い、名分を正して以って聖訓に從わんと、
これなり。なお擧兵の當時榜書して、世の豪
富者は速やかに資を出して、以って義擧を助
けよ、否らざれば卽日屋を焚き、産を奪うべ
し、その時に及んで臍を噬むも甲斐なし云云
と云えり。また暴徒征討のためとして、さき
に朝鮮國王の發したる官兵が、直ちに賊巢を
突くの勢いなく、かれこれ相持する旬余の折、
袁世凱(淸國商務総弁としで駐韓し居れり)
はしばしば國王に謁し、速やかに淸兵を請う
て、一擧に賊を平らぐべしとの旨を勸告した
れども、國王の容易に首肯せざりしは、けだ
しその戰費を思うてなるべし云云。

○朝鮮政府援を淸國
に請ふ

東學黨蜂起して日を經る旣に久しきも朝鮮政府の微力
なる、之を討平する能はず今は如何ともするに道なく
遂に淸國政府に向て援兵を請ひ淸政府直ちに承諾して
此程來李鴻章伯は頻りに部下に命じて出師の準備中な
りと云ふ

○派遣の淸兵凡そ一萬

淸國政府は朝鮮の請に應じ此程より頻りに出師の準備
中なるが昨日天津より達したる報道に依れば派遣の淸
兵は其數凡そ一萬なるべしとなり

○支那兵旣に朝鮮に
向ふ

朝鮮東學黨の變亂は日を追ふて益す甚だしく支那政府
に於ても旣に出兵の儀を決し此程天津發にて東京の或
る方へ左の電報到達したり

李鴻章は威海衛、太沽の
兩地より兵士三千名を發
して朝鮮に向はしむ多分
牙山に上陸するならん尙 ほ引續き出師の準備中な

○朝鮮にある淸人

淸國政府は豫て萬一の用意にとて軍事の心得あるもの
を朝鮮に派出し或は藥賣商に或は行商に姿を變へさせ
一朝事あるの日は直ちに兵士となすの計畫にして斯る
支那人の朝鮮國內にあるもの凡そ一千人なるべしと云
へば今は軍裝の人と變じ居るならんと云へり

右の牙山と云へるは朝鮮國忠淸道に在りて京城を距る
僅に十八里二十四丁の海岸にありと云ふ

○釜山經由の電報

朝鮮京城より釜山を經て我邦に達する電信は京城釜山
間の電線に故障を生じて此程より不通となり今は淸國
通りの電線に依るの外なくして東學黨昨今の動靜不分
明なるは頗る遺憾なれども目下の狀勢我邦人の尤も注
目すべきは淸兵數千の朝鮮に於ける運動なるべしと云

○金氏の實弟東徒に加盟の說

故金玉均氏の實弟金珏均氏は過る十七年の亂には老父
看護の爲め鄕里にありて事に關係せざりしにも拘はら
ず家兄の罪にて斯程より牢獄に繫がれ屠所の羊と一般
なりしが近頃風說する所に據れば獄を脫走して東學黨
に加盟したる由信僞未だ詳かならざれども同氏の器量
は家兄と相上下して決して劣らず朝鮮國內に稀なる人
物なりと云ふ

○事件の趨勢

淸政府、朝鮮の請に應じ凡そ一萬の軍隊を派遣すべし
と云ふ東學黨討平の爲めにしては兵員餘りに過多なり
淸政府の胸算那邊に在るを知らず今後の趨勢、東洋の
天地に大波瀾を生ずるも測られず讀者刮目して本社が
詳報を公にするの日を待ち給へ

○淸政府軍器を貸與す 東學黨の勢益す猖獗に
して朝鮮政府の微力なる容易に之を討平する能はざる
より淸國政府は朝鮮政府の求めに應じて愈よ出兵する
の運びに至りたる次第は別項に報道する如くなるが是
より先き朝鮮の官軍屢屢利あらず東徒の勢益す振ふの
時に當り淸政府は千挺乃至千五百挺の小銃及び其彈藥
凡そ十萬發を或る軍艦にて積み送り朝鮮政府に貸與し
たりとの說あり

○東學黨の紀事 近着の申報(淸國上海發行)に
揭ぐる朝鮮東學黨の紀事を見るに曰く京城よりの郵書
に據れば暴徒の巨魁は崔時亨と呼び尙州の人なり自か
ら緯太夫と號し一味を部下に集め依て以て大に爲すあ
らんとしたれども時至らず志を得ず空しく韜晦して時 機を窺ふ其中に仲間追追增加し來りたれば先づ旗を古
阜に樹て漸く四方に侵略して忠淸道の東南、慶尙道の
西北に至る實に近來未曾有の變亂なり黨衆は稱して五
六萬を超べしと云ふと雖ども各州各邑に出沒して聚散
常なく官軍▣んど拒ぐ能はず官の火藥庫を燒き官の兵
器を奪ひ恰も無人の境を行くが如く又兵食としては各
邑の官穀を取り居民と宿怨あるものは意に任せて殺戮
し又其財貨を奪掠し去て顧みず黨中の小頭は悉く各州
邑小吏の亡命者を以て之に充て頭に黃巾を戴き身に黃
衣を穿ち旗幟亦黃色を用ゐ勢甚だ猛く全州の各營兵一
も之に當るものなく亂黨の過ぐる處郡守縣令府使牧使
の別なく皆放逐されたり而して其擧兵の名義は四あり
一に曰く人を殺す勿れ物を傷ふ勿れ、二に曰く忠孝雙
全世を濟ひ民を安ぜん、三に曰く洋倭を逐滅し聖道を
澄淸せん、四に曰く兵を驅りて京城に入り盡く權貴を
滅して大に綱紀を振ひ名分を正して以て聖訓に從はん
と是なり尙ほ擧兵の當時榜書して世の豪富者は速に資
を出して以て義擧を助けよ否らざれば卽日屋を焚き産
を奪ふべし其時に及んで臍を噬むも甲斐なし云云と云
へり又暴徒征討の爲めとして曩に朝鮮國王の發したる
官兵が直に賊巢を突くの勢なく彼是相持する旬餘の折
袁世凱(淸國商務總辨として駐韓し居れり)は屢屢國王
に謁し速に淸兵を請ふて一擧に賊を平くべしとの旨を
勸告したれども國王の容易に首肯せざりしは蓋しその
戰費を思ふてなるべし云云

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