6月27日
朝鮮問題の關係廣し
朝鮮は東洋の獨立國にして日本を始めとし歐米の諸國
とも對等の地位に在るものなれども其實際の國力微弱
にして自から自家の獨立を維持するに足らざるは勿論
單に國內の秩序安寧を保つことさへ覺束なき程の次第
なり例へば彼の東學黨の如き元これ烏合の貧民にして
大將と稱す可き人物もなく又武器兵糧の備もなく唯多
勢を▣んで地方の官▣を襲擊し官吏を殺し財物を掠奪
するを以て事とする純然たる百姓一揆なるにも拘はら
ず彼の政府は數月の久しき之を鎭定すること能はず漸
く增長せしめて遂に國家の安危にも關する程の一大事
と爲るに至りしこそ中央政權の微微たるを證するに足
る可し前年成る朝鮮の一士人が自國の振はざるを憤り
動もすれば人に語りて云ふやう日本の兵士二百名あれ
ば直に京城に突進して政府を顚覆すること易し云云と
固より一時の慷慨談に過ぎざれども彼の國現時の狀勢
に照して考ふれば强ち無稽の妄說に非ざるを發見す可
し左れば朝鮮が今日まで恙なく獨立を維持したるは寧
ろ偶然の僥倖にして今後如何なる事の成行よりいつ何
時、全土を擧げて他國の有と爲るやも知る可らず其危
きこと實に風前の燈火にして今日東洋の一隅に斯る弱
國の存在するは恰も飢へたる犬の群中に一塊肉を投ず
るに異ならず呑噬飽くことを知らざる世界の國國が稀
有の誘惑に遇ふて安んぞ能く自から欲情を禁ずる
を得んや幸にして今日までは各國互に他を退けて己れ
獨り利益を專にせんとする其嫉妬心の爲めに却て弱國
の安全を得たることなれども此安全は果して能く永續
す可き否や頗る疑なき能はず方今この弱國を自家の所
屬と爲さんとするに最も熱心なるは淸國なり同國政府
は古來これを▣して中國の屬邦なりと稱し近年西洋諸
國と交際を開きたる後も種種の口實を設けて瞹眛の間
に其獨立權を抹殺し去らんことを試みたれども明治九
年日本政府は他に率先して修交條約を結び朝鮮國獨立
の事實を世界に明にしたるより西洋文明の國國も相次
で條約を締結し今は其自主權に一點の疑を容るゝもの
なきに至れり然るに支那人の迷夢は尙ほ未だ醒覺せ
ざるにや心竊に舊時の屬邦論を忘るゝこと能はざる樣
子なれば常に好機會の乘ず可きものを窺ひ時機到來次
第直に隣國を亡ぼして積年の空論を實にせんとするの
野心あるものと見做して間違ひなかる可し卽ち今回の
內亂に騷騷しく出兵したるが如きも彼等の胸算には好
機會の到來と誤り認めたることならんのみ支那に次で
朝鮮に志を抱く者は露西亞なる可し同國は人の知る如
く世界第一の大國なれども其廣漠たる版圖の內に良港
なきが爲めに軍事上商賣上甚だしき不便を感ずるを以
て何處にもあれ海に接する領地を得んことに汲汲たる
は今に始めぬことながら何分にも歐羅巴に於ては他の
諸强國に遮られて其目的を達すること能はず又印度、
亞非肝の近傍に領地を開かんとすれば英國の妨害に▣
ふて是亦意の如くならず頗る困却の折柄親しく自國と
境を接する朝鮮を見れば其沿岸には天然の良港少から
ず加ふるに國の位置は支那日本に密接して交通往來最
も便利なり之を得れば商賣に軍略に益する所少小なら
ざること明なれば露國が朝鮮の地方に垂涎するも亦怪
しむに足らず唯その憚る所は英國のみ英國年來の政略
は專ら露西亞をして海岸に出ることなからしむるの一
事に在れば今若し露人が朝鮮に對して侵略的の方針を
取ることもあらんには英政府はあらゆる力を盡して飽
くまでも之に抵抗するに相違ある可らず或は時宜に依
りては朝鮮を以て英の屬國若しくは保護國と爲すに
至るやも計る可らずと雖も目下の形勢よりして想像す
れば英國は自から手を下して朝鮮を取らんよりは寧ろ
之をして支那の屬國たらしめ裏面より竊に支那を援け
て露の侵略に當らしむるの策に出でんとする者の如し
左れば朝鮮の問題を講ずるに眼中單に朝鮮の一國のみ
を見る可らず美人の柔弱なる固より與みし易しと雖も
他に幾多の情夫ありて關係の利害を殊にせり此處は我
日本國に於ても輕輕の擧動ある可らず目下の悲況を詳
にし將來の大勢を視察し辛勞敢て憚るに足らざるも其
勞をして徒勞に屬せしむるなきの覺悟こそ最第一の肝
要なれ唯一筋に他の獨立を維持するに汲汲して四面を
顧みざるが如きあらんには圖らざる邊に意外の故障を
生じて其目的を達する能はざるのみならず是れが爲め
大に得らる可き利益を得ずして却て徒勞徒費の損失を
蒙ることなきを期す可らず當局者の須らく注意す可き
所なり
○崔時亨 は朝鮮東學黨の將帥にして嚮きに同黨
が全州監營を陷れたるときの如きも之を統率せしもの
は同人なりしと聞く處によれば同人は全羅道の人にし
て大雅と號し明治二十四年夏の頃我國に渡來し小倉福
岡等に遊び夫れより神戶大坂を遍歷して西京に赴き同
地に滯留すること三箇月餘に及べり福岡に於て同人に
出遇ひたる人の話といふを聞くに其時年齡は四十內外
身軀肥大にして眼は細長く鬚髯は稀疎たり人となり沈
默にして最も書經を好みし由にて西京滯在中も某書肆
より同書一部を購入し▣窓の下常に之を誦讀して左右
を離さゞりしと云ふ
○東學黨の潛伏
日支兩國の兵一たび渡韓してより東學黨の勢俄かに
衰へ牙山に上陸したる淸兵は東徒鎭壓の爲め出張し
乍ら亂地に向て軍を進めたる事もなきに今迄猖獗を極
めたる東學黨は朝鮮の官兵にも抵抗する能はず脆くも
占領せる各地を捨てゝ黨勞忽ち振はざるに至りしは如
何にも不思議の出來事にして人人の訝る所なりしが昨
日本社に達したる電報に依れば東學黨は鎭定したるに
非ずして黨衆一時潛伏したるまでの事なりと知らる元
來同黨にして一二の巨魁あり群衆之を戴き叛亂を催し
たるものならんには巨魁を誅戮して亂玆に平定すべし
と雖も同黨は然らず所在の民衆、非政に困むの餘、一時
に蜂起して亂を爲すものなれば勢力を得れば亂民益す
加り黨勢▣けば散じて家に歸り元の良民となり濟して
外見、事なきが如くなるも將に破裂せんとするの火山
と一般、時到れば忽ち噴火して世間を騷がすこと以前
の如し强有力の政府なき限りは到底際限ある可からず
特派員の報道に鎭定に非ずして潛伏なりとあるは此邊
の意味ならん此一事を以ても我兵容易に撤回すべから
ざるを見るべし
○閔泳駿と袁世凱
頃日京城より達したる詳報に依りて淸國が援軍を渡韓
せしめたる顚末を見るに東學黨の亂民▣▣猖獗を極め
官軍の敗報頻りに到るも朝鮮政府の力にては容易に討
滅すべからざる有樣となりたるより泳駿は世凱と謀る
所ありしならん一日世凱、國王に謁見して亂民の勢力
▣なれども世凱をして事に當らしめば卽日討滅するを
得べしと誇り顔に言上しければ國王大に喜び然らば早
速世凱を勞せんとの言なりしかど京城の用務を打捨て
ゝ亂地に出張すること能はずとて之を辭し必要なら
ば本國より兵を送りて亂民の討滅に當らしむべしと答
へ其儘退出せしが是れより泳駿、王に見えて頻りに淸
國に援兵を請ふの得策なることを說きたるも玉は遲疑
して決せず若し淸兵をして朝鮮に上陸せしめば日本兵
の渡來も亦た測る可からずとて國王の心配一方ならざ
りしかば其儀ならばとて泳駿は直ちに袁世凱を訪ひ國
王憂慮の次第を述べて世凱の意見を叩きしに世凱傲然
として世界中淸國の外に國なきが如き容體にて云へる
樣日本の微力なる旣に十七年に敗走して淸國に對すれ
ば唯だ恐怖の外なし日本人何程の事やある若し日本出
兵の事あるも之が處置、爲し易きのみ世凱にして京城
に在らん限りは斯程の事に國王の憂慮を煩はさずと言
も立派に保證したれば泳駿は欣喜に堪ず急ぎ參內して
事の次第を奏し勅許を得て援兵を世凱に請ふ事とはな
りたるなり然るに意外にも淸兵の朝鮮に着するか着せ
ざる其瞬間、日本よりも迅速に出兵したれば國王の驚
愕泳駿、世凱の狼狽一方ならず泳駿頻りに世凱に迫り
たるより世凱遂に本國政府に請ふて日本兵撤回の請求
となりたれども素より不當の要求容れらるべき筈なく
其內、日本兵威儀堂堂紀律整整京城に入りたれば世凱
泳駿共に顔色なく特に廟議を經ず泳駿の獨斷にて援兵
を請ひ其結果遂に今日あるに至りたれば同僚の攻擊は
勿論朝野非難の論鋒泳駿の一身に集り又世凱は前日の
尊大に似ず京城の一隅に蟄居する有樣となりたれば兩
小人の間、忽ち惡意を生じて今は互に反目嫉視する其
狀、傍人の見るに堪へざる程なりと
○平壤に淸兵なし 頃日府下にては朝鮮事件に
關し種種の構造說を流布し現に昨日の新聞紙上に淸兵
平壤に着したりなど出兵の電報と考合せ今頃は着した
るなんと好き程に構造せしものならん昨日の本紙に大
同江筋に淸兵を見ずとの報告最近のものなれば淸兵韓
地に着したりとの事誤報なるを知るべし
○東學黨の眞相
京城 東學黨は日支兩國の出兵
を聞き散じて各所に潛伏
したるまでなり機を伺ひ
又蜂起するの恐れあり