7月24日
●東學黨の消息 近到の朝鮮新報は東學黨の事
に付き記して曰く新任全羅監司金鶴鎭が全州に入
り東學黨の巨魁を集め百方說諭を加へ東徒之に承
服して希望の存する所を述べ監司亦これを容れて
必ず善政を施すべき旨を約し玆に漸く靜穩となり
たるものなれど元是剿滅と云ふに非ず唯離散潛伏
せしに止まり靈光地方にては尙幾分か不穩の形跡
を存し場合により再擧の患ひなきにしもあらざる
ことは聞くに隨つて追追報道せしが目下東徒の重
なる連中は曾て全州陷落の前數日官兵と兵を交へ
て大に之に勝ち彼徒が根據地と定め進んで全州を
陷いるゝの策を講じたる長城の地に占據し全監司
に申出たる條目の裁許如何と每日指を屈して待ち
構へ居れり其所謂條目なるものは左の如し
一轉還營革罷。依舊自邑上納事
轉運營なるものは近年の創置にして各邑に集めたる貿米を再集
し政府に輸送することを掌る役所なり此役所の官吏は輸送委員
卽ち是なり彼等が中間に立ち私利を貪ること多きを以て斯くは
申立てたるなり
一均田御史革罷事
均田御史とは我舊幕時代に於ける田畑丈量役の如きものにして
各邑田圃を丈量する時收賄等不都合の所爲多きなり
一貧 一各邑逋吏。犯逋千金。則殺其身。勿徵族事。
徵稅吏が中間に於て種種の金錢を貪るを矯正するの希望にして 一春秋兩度。戶役錢。依舊例。每戶一兩式。排定事
戶役錢とは我邦にて所謂戶別稅の如きものなりし亦數年重課せ 一各項給錢。收斂錢。平均分排。勿爲濫捧事
一各浦口。私貿米。嚴禁事
一各邑守令。該地方。用山買庄。嚴禁事
各邑守令が人民所有の山林田畑を直段等相當に拂はず强て之を 一各國人商賈。在各港口。賣買。勿入都城設市。勿出 都賈とは官の特許を得て地方を限り又は商業の種類を限り一手 一行袱商。爲弊多端。革罷事
行袱商とは一部商人の名稱にして普通商人の妨害を爲すこと少 一各邑吏分房時。勿捧請錢。擇可用人任房事
是亦た稅吏の貪虐を抑ふるの目的なり
一姦臣弄權。國事日非。懲治其賣官事
一國太公(卽ち大院君)干預國政○則民心有庶幾之 ●招討使の得意談(全羅戰況) 朝鮮新報社員頃 ▲湖南亂徒の總人員は大略四萬に超ゆべし▲招討
必ず當人を殺し從前の如く親族より辨償して而して濟ますべか
らずと云ふに在り
らるゝを以て舊の如く减せられたしと云ふに在り
買上げ自己の所有となすに由るなり
各處任意行商事
に商權を握り他人之を營むこと能はざる制なりこれが爲めに商
人の困難大なるに由てなり
なからざるなり
望事
日招討使洪啓薰を漢城江硯の第に訪ひ先づ其凱旋
を祝し且つ其偉勳を立てたるを贊して徐徐全羅の
戰況を問はんとす氏亦溫容微笑を洩らしつゝ具さ
に語らんと欲するが如きも折柄來客坐に滿ち書翰
を齎らせる使僕は階下に接踵し左右應接筆紙手を
離れず極めて繁忙なりければ同社員も詳探を爲す
に由なく唯一說一話斷續の儘に聞き得たる儘の梗
槪なりといふは左の如し
使は洪啓薰同參謀官朴鏞明招討使隨員朴明和此人
曾て日本に遊學し日語を解す▲巡邊使は李元會同
參謀官禹嚴世▲京軍一千名(內六百名壯衛兵)江華
兵四百名淸州兵二百名何れも招討使に屬す▲全州
監營兵二百五十名平壤兵五百名何れも巡邊使に屬
す▲京軍と賊徒と鋒を交へたるは長城の戰を以
て初めとす此戰は韓曆四月二十三日午前十一時
頃黃龍河に於て開かれ官兵三百突然亂徒の襲擊に
遭ひ大砲を放つて防禦したれども何分官兵は未だ
朝餐を了へず空腹の時にて身體の働き自在ならざ
りし爲め大敗を取りたれど幸ひに兵卒の卽死した
るは僅か四名のみ隊官李學承等も亦討死したり▲
同二十七日亂徒は遂に全州を攻め落し負商褓商其
他土民等を以て組成したる兵丁一千餘名も之れが
爲め大半は死傷したり是に於て京軍は靈光に出で
て全州に進擊せり▲同二十八日京軍は全州に着し
該城に面したる完山に陣を取るや否や賊軍は二手
に分れ一手は城の南門より出でゝ山の東方より攻
め登り一手は北門より出でゝ山の西方より襲ひ來
る是に於て激戰午前九時より十二時に至り賊徒大
敗死傷凡そ四百餘名賊徒避易退いて城に入り各門
を固鎖して漫に戰を挑まず▲賊徒が持久の計
も終に詮なく寧ろ雌雄を一戰に決するに若かずと
思ひけん五月三日の早天彼の徒は火を南門外の民
家に放つて悉く之を燒き拂ひ城の四門を開き鬨の
聲を作りて突然猛進山の西北より官兵を一擊に破
碎せんとするの勢ひ殆ど敵すべからずと雖も官軍
は悉く山上に在るを以て銃を用ふる自在拳し下り
に打ちおろすより賊兵の倒るゝもの無算なりと雖
も彼等は此一戰を最後と定めて面も掉らず血を踏
み屍を踰えて無二無三に攻め來りて終に山上に登
り詰めたれば予は最早銃を用ふるに便ならずと思
ひ一軍に令して悉く拔刀せしめ息をも付かせず切
りまくりたるを以て彼の徒も之れには敵し難く散
散になりて逃げ走り巨魁たる李福龍(十四歲の童)
宣判吉金順明朴某郭某鄭某崔某等も悉く玆に戰
死し其他賊徒の死傷者は一千餘人にも及びたらん
と思はる而して生存の殘類は終に抗すべからざる
を覺り四日より八日に至る間悉く兵器を納れて
軍門に降服したれば予は兼ての台命を奉じて厚く
訓誡を加へ悉く其罪を問はず各各歸家安堵する爲
め各地方官へ宛てゝ其趣を記したる添翰を與へ
たるを以て彼等も只感泣して深く其罪を悔い天恩
の洪大なるを謝して歸散し玆に全く鎭撫平定の事
を了れり▲李福龍以下戰死したる巨魁の首級は悉
く鹽詰めにして携へ歸れり▲右語り了りて招討使
は語を更めて云く賊兵が彈丸雨注の中を物ともせ
ず每に槍劍を振つて吶喊奮進し來る勇猛の氣に至
りては實に感ずるに餘りあり故に今回京軍の戰勝
は全く銃器精利の賜に外ならず若し彼等をして同
等の兵器を操らしめたらんには容易に討平は出來
ざりしならん尤も長城の敗戰に小銃數多と大砲
とを奪はれたれど小銃は彈藥なくして彼れの用を
爲さず大砲は新式のものにして彼れ其の打ち方を
知らず故に何れも彼れに取りて無用の長物たりし
なり只彼の徒は舊式の火繩筒に彈丸を二三發づゝ
も籠め彈藥を以て放つより往往銃身裂けて自ら怪
我したるも少なからざる樣子なり▲本社員問ふて
云く京城仁川間にては日本人東徒中に在との巷說
あり固より左る事のあるべしとは思はれざるも或
は該地にても同樣の說ありし事なるや招討使曰該
地にては初め左る詳說は聞かざりしも或る時怪し
き風體の者一人我が陣邊を徘徊せり番兵は必定賊
の細作と思ひ捉へたる際に冠の落ちたるを見れば
斬髮頭なりしより陣中にても一時は日本人賊徒に
加擔せり抔との臆說も起りたり去れども予の考へ
にては東徒中に數多の僧侶も入り込み居りし故其
一人ならんと思ひて深く意にも掛けず且つ右の細
作は番兵卽座に殺したれば鞠問する能はざりし▲
招討使又曰く予は戰地に在りて淸軍來援の事を聞
きたれば直ちに政府に電報して決して其來援を要
せざる旨を上啓したれども旣に請願の後なれば已
むを得ずとの返信ゆゑ更に電音を以て假令▣艦來
泊するも斷じて上陸せざるやう取り計はれたしと
申し送りたるも之さへ行はれずして遂に上陸に至
りたるは遺憾なりしと