11月14日
●朝鮮時事
十一月五日仁川 靑山好惠
▲忠淸道の東學黨 近日忠淸、慶尙各地の 左の電報仁川の其筋に達したり
原田少尉二分隊を以て一昨日槐山地方へ偵察中 右の一中隊は龍山より淸州方面に向ひ槐山方面と 其筋への報道に據れば各地にて東學黨より分捕せ 釜山に在りし工兵半中隊は東學黨征討のため釜山 朝鮮政府は忠淸道に於る東學黨征討の爲め一兩日
兵竝
目下東學黨の猖獗を極め居る地方は北部には忠淸
道の忠州、槐山、淸風、報恩、丹陽、延豐及忠淸道の
東部諸地方南部には慶尙道の尙州、星州、晉州、仁
同及慶尙西北部の諸地方にして南方の分は重に東
學黨、北部の分は重に純粹の東學黨に係り其勢力
も極めて强大にして可興より昨日達せし電報に據
れば忠州、淸風附近の者のみにて總勢二萬に過ぎ
武器精銳、糧食も亦充實せるが如しとあり左れ
ば今日朝鮮の東學黨と云ふは實に此忠淸道の東學
黨なりとす東學黨の各地に蜂起せるは實に先月上
旬以來の事にして彼等が何かの誤解より內地各所
の我兵站部を襲擊せしこと已に數十回なるも我兵站
部に於ては常に守備兵を以て之を擊退し居たりさ
れど素より寡を以て衆に敵することなれば十分鎭壓
の目的を奏し得ざるより去十月廿七八日頃一中隊
の兵を仁川龍山兩地より繰出したり而して右征討
兵出張結果に就ては此迄何等の報道も達せざり
しが俄然昨夕四日午前十時廿五分發にて可興より
昨日該地に於て賊兵二萬人に出會し激戰漸くに
して今日六時忠州に歸る但し原田少尉傷き(公
務を廢するに至らず)上等兵一名卽死兵卒四名
負傷せり
は異なりたる他の兵站路を進み居りしものなるが
定めて途中より槐山附近東學黨の猖獗を聞きて道
を轉じたるものならんと云ふ槐山は京城より二十
八里に在り
る火繩筒其他の武器は幾百點なるを知らざるも皆
直に燒捨てたりと
より京城迄の兵站路を順次北進中にて昨四日慶尙
道の首府大邱を發したり忠州附近の我屯在兵と合
するは來る十日頃なるべし又忠州附近には我兵二
中隊屯駐し居れば東學黨の襲來に對しては守禦す
べきも進んで彼等を鎭壓するの力あらざれば更に
一兩日中我兵○○隊を右の東學黨騷亂地方に增發
せんとす
中に兵四百人を出發せしむと昨日京城より來電あ
り多分明日頃出發するならん又右の四百人は日
本士官一二名にて監督すと云ふ是は前便に報道せ
し如く朝鮮兵三百を汽船顯益號にて群山に送致す
る筈なりしも同船は御用船となり居り暫く他に使
用し能はざるよりかくて模樣換となりしものなら
んと思はる又忠淸道邊の東學黨中に支那敗兵交り
居れりとは全く噂に過ぎずと云ふ