3月6日
●朝鮮時事(二月廿日)
京城 靑山好惠
內閣大波瀾收局
舊派の面面は井上公使に向つて曰ふ閣臣全體が協
同一致して改革の事に從ふべしとは我我の素望な
り新派の人人にして余等を擯斥せんとするが如き
ことなくんば余等豈何を苦んでか新派の人人に向
つて惡感情を抱かんや
舊派の中に就きて魚度支は新派の人人より最も惡
まれ居るは自分なるが故に我ありては到底內閣の
協和覺束なし一身を引退して閣員の折合を圖るに
若ずと六回迄辭表を呈出したれども聽かれず遂に
井上公使の懇切なる勸告に由り一先思止まれり
朴內務、徐法務、金工務署理大臣等所謂新派の面面
は井上公使の招に應じて昨日公使館に至り井上公
使より嚴談を受け誠心正意舊派と和して一致の働
きをなさんと宣誓せり
此の如くして新舊兩派の不折合より來れる內閣總
辭職一件の大波瀾は井上公使が新舊兩派の間に立
ち處置を下したる結果先づ九分通り迄の收局を見
るに至れり
東學大巨魁審問續聞
昨日以來日本領事館にて取調べたるもの左の如し
と聞く前者と差異ある數點を擧ぐ
に東學人金致道なる者より私に東學の書物を示
したることあり中に「敬天守心」と云ふ文章あり其
內に「大體正心」と云ふことに感じて入黨せり
他に其方の入黨を促せし因なき乎
の必要なきも東學黨の所謂「敬天守心」と云ふ主
意よりするときは正心の外「協同一致」の意を含
み居れば結黨するの要を見るなり心を正うせる
者の一致は奸惡なる官吏を除き報國安民の業を
成し得ればと考へし故なり
知らざりしと云ふも日本人海浦なる者(名篤彌
尾崎行雄氏の門下にして久しく京城に在り)外
一二名と會し互に胸襟を披きて時事を談じたる
ことありしに非ずや
원문누락
互に音信せんと迄約せしことあり然るに其の後彼
人等より遂に文信を得る能はざりしより京地の
事情を知る能はざりし
が汝の國を屬國となさんとするに心附かざりし
は汝にも不似合の事ならずや
居るに付此上に國を倂はさんと迄はせざるべし
と思ひたり
建永全羅道に、召募使宋廷燮忠淸道に來り大院
君に於て少しく考ふる所あり義兵を招募するの
意あり汝等は此に應ぜずやと說きたれども咄妖
魔何をか云ふと笑ひを以て斥けたり(宋廷爕が
大院君の旨を受けて東學黨を煽動せりとの嫌疑
にて捕縛され法務衙門に於て審問を受けたるの
事實は昨年十一月末頃通信せり同人は現に尙審
問中にあり)
と誓ひし者は僅かに四千人なりしのみ
大正、中正等にして功勞あるもの接主となり接
主中の長老を法軒と尊稱せらる
く日本の我國に異志なきを知れり然れども忠淸
道地方六十數萬の殘黨潛在す早く彼等の處に一
篇の曉諭文を送り彼等をして日本の朝鮮に二な
きを知らしめて安心せしめられよ
一昨日の通信に全祿斗以下東學黨領袖株八名の中
に記しありし權豊植は彼の閔應植の妹壻にして
咸平郡守の官に在りながら東學黨の兵糧方を務め
朴鳳陽は雲峯縣監にてありながら賊に黨して働き
たるものなり他八名の訊問終り次第法務衙門の審
問に移さるべしと云ふ押收書類は審査中なり
東學首領と合議政治
今日法務衙門より參議李在正氏主事一名を携へて
日本領事館に來り全祿斗の取調をなしたるが取調
べ中日本警部の汝京城に攻入るの後誰を▣かん考
へなりしやとの問に對し答へて曰く「日本兵を拂
ひ惡奸の吏を逐ひ君側を淸めたる後は何人か柱石
の士を押立て政治を執らしめ自分等は直に田舍に
歸り常職たる農業に從事する考へなりし尤も國
事を擧げて一人の勢力家に委するは大に弊害ある
を知るを以て數人の名士に協合し合議法に依りて
政治を司どらしむる所存なりしと」彼れ稍稍事を
知れり昨日東徒捕虜十名又護送せられ來る
地方裁判所設置意見
從來朝鮮の地方行政法は地方官をして裁判官の職
務を竝兼ねしむるの制なりしが斯ては弊害少なか
らず開港地の如き外國人と交涉多き所に於て特に
甚しとす就ては通商開港地丈けにても別に獨立
の地方裁判所を設置しては如何とは井上公使の意
見の由にて近近朝鮮政府に忠告さるゝなるべしと
云ふ
●京城近事 四日 京城靑山好惠廿六日發郵報摘要左の如し
▲財政調査 は已に中央の分を終り是より地方 ▲稅關改革の機 稅關の改革は各官制發布と同 同廿七日發郵報摘要左の如し
▲內務協辨の交迭 李重夏辭職し法務協辨鄭敬 ▲東學大巨魁 東學黨大巨魁全祿斗を本日法務
の部に取掛らんとす
時に行ひ其時を以て全く淸國に關係ある軍人官
吏を免▣らるべし
源之に代れり
衙門に引渡せり (以上前號▣外)