5月7日
●朝鮮時事(四月二十三日)
京城 靑山好惠
東學黨巨魁の裁判
我征討軍の爲めに捕へられたる東學黨大巨魁全錄
斗、成斗漢以下二十一名の審問完結し愈愈今日午
後三時より權設裁判所の法廷に於て裁判長法務協
辨李在正氏判官法務參議張博氏等內田京城領事の
立會を得て裁判を宣告せり全錄斗、成斗漢、崔敬先
孫化忠、金得明の五巨魁皆死刑に處せられ直に執
行せられ他の十數名は罪の輕重に依り杖一百乃至
三百遠島一千里乃至三千里に處せらる、全祿斗は
數ケ所の銃創打傷に加ぶるに長日月の入牢の爲め
全身衰弱し果てゝ殆ど座に堪ふる能はず而かも刑
の宣告を受け終るや尙憤然膝を打て曰く正道の爲
めに死する毫も怨なし唯逆賊の名を受けて死する
切に遺憾なりと、孫化忠も亦刑の宣告終りて退廷
せしめられんとするや顧みて法官及余等日本人を
一睨して叫んで曰く民の爲めに義軍を起して死に
處せらる天下斯る非理あらんやと、朝鮮社會の現
狀は勇士を驅て其向ふ所を誤らしめ遂に斯く可憐
の最期を遂げしむ噫、此日余等新聞記者數名亦特
許を得て傍聽せり朝鮮の法廷に日本新聞記者の傍
聽之を嚆矢とす、全祿斗の宣告書(原韓文)は左の
如し
全羅道泰仁山外面東谷居農
被告 全琫準
右全琫準に對する刑事被告事件の審理を遂ぐる
處被吿は東學黨と稱する暴徒の巨魁にして接主
と號し開國五百一年正月全羅道古阜の郡守趙秉
甲なる者始めて任に抵り頗る虐政を行ひ該地方
の人民等疾苦に堪へず翌年十一二月頃郡守に向
ひ其苛政を改めんことを哀願したりしも單に目的
を達する能はざりしのみならず却て悉く獄に絏
がれ尙其後再ひ請願する所ありしも直に却下せ
らるゝのみならず毫も其效力なきに依り人民等
大に憤り數千名相集り將に暴擧に及ばんとする
際被告は適適其群に入り推されて謀主となり昨
年三月上旬其徒を率ゐ古阜外村に於る倉庫を毁
ち金穀を奪ひ盡く之を人民に分與し尙一二の暴
行を働きたる後一旦解散したりしが其後按覈使
たる長興府使李容大なる者古阜に至り前記の暴
擧を以て東學黨の所爲となし東學の道を修るも
のを捕へ殺戮を逞うせしかば被告は乃ち更に其
徒を糾合して兵を募り若し之に應ぜざるものあ
れば不忠不義の者なるを以て必ず罰する所ある
べしと强迫し其徒四千餘名を得たり而して此等
の徒黨には各其所有せる兇器を携帶せしめ糧食
は地方の富裕者より徵發し同年四月上旬頃被告
自ら其徒を率ゐ全羅道茂長より起り古阜泰仁院
坪金溝等に赴きたるとき全羅監司の砲兵一萬餘
名東徒征討の爲に至ると聞き一旦古阜に退き同
地に於て之と交戰すること殆ど一晝夜に及び遂に
之を擊破り進みて井邑興德高敞茂長靈光咸平を
經長城に至り京城より派遣せる軍隊七百餘名に
會ひて亦之を破り其より尙晝夜兼行して進軍し
遂に同年四月二十六七日頃官軍に先ちて全州城
を占領せしに當時全羅監司は已に逃遁して往く
所を知らず然るに其翌日に至り招討使洪在義、
兵を捬して城下に迫り城外より巨砲を放つて之
を攻擊せしかば被告は其徒と共に奮戰し頗る官
軍を惱ます招討使乃ち檄文を城中に投じ被告等
の願を聽き其目的を達せしむべきに依り速かに
徒黨を解散すべき旨を諭達せしかば被告等は乃
ち轉運所革罷、團結不爲加、禁斷步負商人作弊、
道內還錢舊伯旣爲捧去則不得再徵於民間、大同
上納前各浦口潛商貿來禁斷、洞布錢每戶春秋二
兩式定錢、貪官汚吏竝罷黜、壅蔽上聰賣官賣爵操
弄國權權人一竝逐出、爲官長者不得入葬於該境
內且不爲水田、田稅依前、烟戶雜役減省、浦口魚
鹽稅革罷、湫稅及宮水田勿施、各邑倅下來民人地
勒標偸葬勿施等二十七ケ條の請願を其筋に執奏
せんことを乞ひしに招討使は直に之を承諾したる
より被告は今年五月五六日頃悉く其衆を散じ
各自職業に就かしめ且之と同時に被告は崔敬宣
以下其部下二十餘名を伴ひ全州より出發し金溝
金堤泰仁及長城潭陽淳昌玉果昌平順天
南原雲峯等各所を遊說し七月下旬頃泰仁の自宅
に歸れり
然るに其後被告は日本軍隊の大闕に入りたるを
聞き是れ日本人が我國を倂呑するの意に外なら
ずと思ひ日本兵を擊攘し其居留民を國外に驅逐
するの目的を以て再び兵を擧げんことを圖り全州
附近に於る參禮驛は土地廣闊にして且全羅道要
衝の地に當るを以て同年九月泰仁を出發し院坪
を經て參禮驛に至り募兵の本部を此處に定め鎭
安の居人東學黨接主文季人全永東及び李宗泰金
溝の居人接主趙駿九全州の居人接主雀大奉及び
米日升井邑の居人孫汝玉扶安の居人金錫允金汝
中及び崔敬宣宋憙玉等と謀り昨年三月以來被告
と事を共にせし暴徒の巨魁孫化忠を始め全州鎭
安興德茂長高敞其他遠近各地方の人民に向て或
は檄文を傳へ或は人を遣はして遊說し全羅右道
より兵を集むること凡四千餘名に及びしかば則ち
處處の地方官衙に迫り其備ふる所の軍器を强奪
し又地方人民の富有より金穀を徵發して參禮驛
を發し行行徒黨を募り恩津論山を經て徒類凡一
萬餘人を得十月二十六日頃忠淸道公州に至りし
に該地は已に日本兵の據る所となりしを以て之
と前後二回の戰ひを試みたるも二回共大敗北し
たり然るに被告は其後尙日本兵を攻擊せんと企
てたれども日本兵は公州に在て更に動かず其間
被告部下の徒は漸く逃散して竟に收拾す可らざ
るに至れり依て止むを得ず一旦故鄕に歸り再び
兵を募り全羅道に於て日本兵を禦がんとしたれ
ども其募に應ずるものなし是に於て被告は三五
の同志と謀り各服裝を變じ潛かに京城に入り情
況を視察せんと欲し單身商人風に裝ひ泰仁より
上京の途次全羅道淳昌に於て民兵の爲めに捕へ
られたるものなり
以上記載する事實は被告及其共謀者孫化忠崔
敬宣等任意の供述押收證據書類により明瞭な
るものにして之を法律に照すに被告の所爲は大
典會通卷之五刑典中軍服騎馬作變官門者不待時
斬云云の條項に依り處罰すべき犯罪なりとす
右の理由に依り被告を死刑に處す
開國五百四年三月二十九日法務衙門權設裁判
所に於て
法務大臣 徐光範
協辨 李在正
參議 張 博
主事 金基肇
同 吳容默
會審
京城駐在帝國日本領事 內田定槌