萬朝報
明治27年(1894)
5月25日
●朝鮮の騷動
忠淸道及び全羅道の監司、征討使等より京
城へ急を報ずるの電報中其重なるものを左
に揭げんに
官軍振はず 賊徒數千名、各所に屯集して
各邑を侵略し吏民を招募す素より烏合の衆
なれども官軍の兵數甚だ少く僅かに二百名
を調發したるに過ぎざれば道を分つて竝び
進み討滅を計るなど思ひもよらず一同苦心
▣中なり速かに充分の指揮あらんことを請
ふ事若し延引すれば賊徒益ます蔓延すべし
(十四日忠淸道監司發)
賊徒▣勢ひ雲霞の如し 賊徒井邑に於て大
に官軍を破りし後更に古阜三巨里に向つて
屯集す各邑より之に應じて馳集るもの雲霞
の如し卽ち征討軍と接戰の爲めなれば招討
使が無心に陣を進むるも討滅すること思ひ
もよらず本日までに官府の軍器を奪はれた
るは十餘箇所、官吏の放逐されたるは十三
邑▣殺害されたるは四邑に及べり(同日全
羅道監司發)
牧使の一家悉く毁さる 羅州の牧使閔種烈
(前外務督辨閔種默の兄)は事故ありて屬吏
の重なるものを殺したる爲め其同僚等大に
怒り徒黨して攻擊せし所より逃走したり彼
等は牧使逃走の後その官宅に亂入し家族婢
僕に至るまで悉く殺戮し未だ退去せず、扶
安近傍十三邑の守令は悉く難を避けて松監
營に逃れ軍器を始めとして錢穀は悉く賊徒
に奪はれたり(同上)
官將の討死 完營の右領官李璟鎬は手兵を
率ひ賊軍と大戰し矢石を避けず深く賊陣に
入りて數十名を斬殺したれども遂に敗れて
討死せり其忠節賞するに餘あり完伯は爲め
に喪を治む(同日招討使發)
營將賊に與す 前全州の營將金始豊は元來
才智力量共に勝れて數年前火賊の征討に功
ありければ朝廷之を賞して營將とし尙ほ四
五年の間其職に在り悉く同賊を討滅したる
が爲め一營一道の內威權あること監司も及
ばざる程なりし然るに今度東學黨の亂に當
り營將の顯職にあり乍ら陰かに賊徒に通じ
內應を爲す由招討使これを探知して罪跡明
白となりたれば兵丁を遣し四方を圍み生捕
らんとしたれども抵抗して命を奉ぜざる爲
め遂に官軍に殺さる(十五日忠淸道監司發)
生擒二十七名 羅州牧使の報ずる所に據れ
ば賊徒數千名、勝安里に屯集するとのことに
付き牧使自ら吏民を率ゐて討伐し廿七名を
捕へたり餘黨は逃走して行く所を知らずと
のこと依て招討使と協力して專ら戒嚴中な
り(同日全羅道監司發)
獄を破りて囚徒を放つ 興德兼官の報ずる
所に據れば一昨日賊徒邑內に入り軍器を略
奪し午炊後高敞に向つて進みたり又高敞公
兄(高敞の長吏を云ふ)よりの書面を見るに
一昨日戌の刻頃賊徒數千名興德より直ちに
高敞に入り獄を破りて七名の囚徒を引出し
續いて殷大靜の家を襲ひ印符を奪はんとし
たれども僅かに奪はれざることを得たり尙
賊徒は昨日轉じて茂長へ進發したり(同上)
狼籍到らざる所なし 羅州よりの報を見る
に五月九日賊徒數百名隣境の務安に集り頻
りに錢穀を奪ひ亂暴狼狽到らざる所なし該
倅は吏民を率ゐて發向し翌日三十名を捕へ
且彼等が所持の書冊錄卷、念珠、札物等を沒
取送附せり又茂長公兄の書狀を見るに五月
十一日多數の吏民を發して賊徒二十九名を
捕へたり(同上)
歸順したるもの千餘名 出陣軍官よりの
報に據るに賊徒の內昨夜歸順すると稱して
散じ去るもの千餘名に及べり又後の報を見
るに沃川より懷德に至るまで賊徒の屯集す
るに向つて進擊し彼等が前日▣(來)略奪したる
軍器を放棄して逃走するの際二名を生擒し
推銃四十四、鎗四十一、環刀六十、丸數斗、弓
三張、矢三百、斧三、鐵錐五介を獲たり軍器
の準備あるや否は未だ知るべからずと雖も
數名を捕へたるは亦幸と云ふべし(同日忠
淸道監司發)