6月3日
●朝鮮戰記
五月廿六日釜山發通信の續き
領官以下死亡百十四名 全羅道監司の啓聞
に曰く領官以下死亡するもの統べて百十四
名と稱す最も監營に於て探知せしは負商、
褓商、平人、營兵等の數に留まり京軍其の他
各邑砲軍は散在して實狀を知り難し目下各
邑に戒飭して査檢せしむるに被侵各邑共に
軍器は悉く東徒の▣ふ所となり今は負褓商
等に給與すべきの分すらなし然ども未だ賊
襲を受ざる黃土山の如きは公穀公▣を支出
して防守を怠らず(韓曆四月十三日監司發)
招討使の急請、元世祿の無難 招討使援兵
を促がし且つ世祿の無難を報ず其略に曰く
(一)沁營卽ち江華營の兵丁は何日頃下降す
べきや(二)軍刀の良品十本を送付せられよ
(三)元世祿は昨日歸陣せり(四)李斗黃、李
學永等に命じ二隊を率ゐ金溝、泰仁、高敞興
德等の地方に向はしむ(十三日招討使發電)
靈光郡の賊▣ 東徒萬餘人靈光郡に屯集す
五里にして伏軍あり三十里にして先鋒軍二
千五百餘名あり賊兵山野に彌蔓して勢ひ益
益猖獗なり四方の良民相率ゐて賊に投じ官
軍の急を報ずるもの信書雨の如く招討使苦
悶愈よ甚だし(十五日招討使暗電)
東徒の一軍靈光城に籠らんとす 賊萬餘人
靈光を襲ふ郡守閔泳壽舟を浮べて七山津に
避く賊兵勝に乘じて城內に闖入し軍器火藥
を奪ひ府庫を封じ四門を鎖して出入を許さ
ず曹正言、金進士の輩爲めに殺戮せらる察
するに賊兵等は之に據り頑拒するの意なら
ん(十五日全羅道監司暗電)
賊兵、官船を遮攔す 韓曆四月十六日(我
が五月廿日)招討使の報ずる所を聞くに官
船漢陽號(利運社の小汽船)貢米積込みの爲
め四月十三日靈光九岫浦に到りしに▣徒
數萬、法聖、九岫浦▣▣の山腹に據り刀槍
を揮ひ銃砲を放ち官船を遮攔し船板を破碎
して舟子竝に日本人等を毆打し仁川港委員
金德容等數名を捕縛したり漢陽號は之が爲
めに貢穀を搭載すること能はずして空しく群
山に引返せり云云
群山上陸當時の摸樣 招討供洪啓薰氏は四
月四日(我が五月八日)申刻仁川港を發し隊
官李斗璜は一隊を率ゐて漢陽號に搭じ隊官
元世祿は一隊を率ゐて蒼龍號に搭じ招討使
は自ら中軍三隊の兵を引率して淸艦平遠號
に乘じ同日酉刻中洋に達したれども全軍水
路に熟せざるが爲め進▣を止め翌濃霧の晴
るゝを待つて群山沖に達せり然れども船體
(平遠號)大にして水淺きが爲め前進すること
能はず蒼龍、漢陽二船に分載して同月六日
申刻辛じて群山浦に上陸し得たるよし
金世豊の子姪賊に投ず 賊兵に通じて誅戮
せられたる世豊の子壻弟姪等十一名は全州
南門樓に揭▣し逃走して賊群に投じたり▣
の略に曰く方今の事務坐して死を待つべか
らず近者所謂執權大臣なるもの皆閔を以て
姓とし終夜滿腹私慾之れ營む嗚呼此の民を
奈何せん、所謂招討使なるもの無議怯懦▣
巡兵を進めず而して猥りに質良有功の士を
殺す是れ乃ち名を釣り邪を飾るもの、久し
からずして必ず毒刑を受けん知らずや三歲
の後、國は俄(露西亞)に歸し人は洋に化す
ることを東道の大將之を▣ひ義兵を擧げて以
て民生を安んず云云と (以下次號)