6月5日
●朝鮮戰記
五月廿六日釜山發通信の續き
捕盜廳校探偵 の報告に曰く茂長、井邑、靈
光、長興、泰仁、玉果に屯聚するの徒、天天
陣法を操鍊し宵宵韜略を講讀す此六邑の壯
丁通計五六千人計りにして就中茂長尤も多
し各邑二十里計り每に各各義旗を立て千餘
名を集團す其對陣して相戰ふのとき彼れ先
づ白布帳を揮へば則ち官軍如何に大小砲を
發するも銃彈破片紛紛彈ぢかれて白布の外
に落つ此を以て官車常に破らる甚だ訝し云
云又曰く東道大將軍令を各部隊長に下して
約束すらく敵に對するの時に於て兵刃に衄
らずして勝つ者を首功とす已むを得ずして
戰ふも人命を傷ふことなきものを次とす行軍
して過ぐる時叨に民物を害すること勿れ孝悌
忠信の居村には十里(我が一里)內に屯駐す
ること勿れと
東徒十二旒の軍旗 東徒は十二條の軍旗を
押立てゝ常に戰陣に向ふ▣の旗章は
愛撫降者、敬服順者、救濟困者、飢者饋之、
貪官逐之、姦猾息之、勿追走者、曉諭逆者、
賑恤貧者、給藥病者、不忠除之、不孝刑之、
の十二句にして黨徒中若し此條に違ふ者あ
らば直に地牢に囚ふと云ふ
李聖烈の書翰 淳昌府使李聖烈より閔惠堂
泳駿に寄せたる書面の略に曰く四月三四日
頃東徒金溝、泰仁の地方より退いて扶安、
古阜等の地に向ふ官軍之を逐ふて古阜井邑
兩地の境界に至りしに東徒は僧▣山の嶮に
據り官軍の進路を遮ぎりたり僧頭山は其形
ち伏盤の如く彼徒は陣を山上に張りて外面
に白布帳を布き土壘を築き內には束藁を置
きて身を其裏に隱しつゝ發砲をなせり官軍
の陣彼と相距る東西僅に數弓而して地形稍
下れり彼等は暗夜に乘じて▣に官軍を其頭
上より狙擊し死力を出して挑戰す官軍本と
烏合の衆彼れの急擊に遇ふて潰散四散殺害
せらるゝもの測知すべからず衆心乖離兵氣
頓に沮喪す昇平日久しく兵丁用を爲さず誠
に嘆ずべきなり目下彼徒三四千に過ぎざる
も恐くは今後次第に增加せん且彼れ到る處
火を民家に放ち民産を掠奪し民心淘淘老者
は溝壑に顚じ幼者は道路に泣き殆んど其の
行く所に迷ふ奚爲ぞ相率ゐて盜賊たらざら
んや全道幾邑は業に已に空虛となれり若し
猶ほ朝廷撫綏の法を立てずんば或は恐る智
者も亦た遂に功を成し難きを彼等は符籤を
以て人を誘ひ嘯呼して黨を聚め名を洋倭の
擯斥に假り咎を守宰の貪婪に託し以て黔首
を欺く是れ蓋し一朝一夕の故にあらざるな
り此の徒王法に於て固より其罪惡を逭るべ
からざるも奈何せん兵力の恃むに足らざる
を念ふて玆に至れば一▣に於ては方伯の任
最も撰捧せざる可らざるなり貪虐の宰悉
く懲治せざるべからざるなり賦斂の弊全然
矯正せざるべからざるなり然して後衆心慰
むべきのみ一面に於ては急に宣撫の特使を
▣はし之に臨むに兵を以てし之を諭すに義
を以てし之を撫するに恩を以てし而して彼
終に抗抵すれば則ち天誅を加ふこと恐くは事
宜に合せん然して後兵衄らず賊魁捕獲すべ
きなり彼徒固と窮寇急追すれば則ち其勢ひ
益益團結して解き難く緩漫なれば則ち驕悍
にして服せず其間最も商量せざるべから
ざるなり加之ならず軍器は掠奪せられて餘
品なく賊再び席卷し來らば我が此列邑を奈
何せん云云
賊擒へられて氣焰を吐く 招討使潛往來行
の東徒數十名を拿捕して詰問す渠れ曰く予
等忠孝を以て本とし滿朝の姦賊を除かんと
欲するのみ何が故に逆名を加へんとはする
當時逆賊と稱し得べきもの唯唯貪婪飽くな
き方伯守令等の類のみ我等が首魁東道大將
軍李世年齡纔かに十四歲上は天文に通じ下
は地理に精し能く人の禍福を辨知す且つ鄭
、徐兩元帥皆英邁智勇、古の良將と雖も
之に過ぐるはなし況んや已に十萬の精兵あ
るをやと招討使更らに問ふ汝の官軍と抗戰
するや白布(幔幕の事ならん)一たび揮へば
矢石砲彈も之を穿つこと能はざるは如何、渠
れ答へて曰く水は火に克つ火砲焉ぞ能く
水白を犯さんや汝必ずしも訊問すること勿れ
と意氣昂然甘んじて枷囚に就き其の處分を
待つものゝ如しと云ふ
援兵派遣の廷議 韓曆四月十八日夜京城諸
大臣は種種熟議の上、壯衛營の兵丁三百名
沁營の兵丁五百名を卽時出發さすことに決す