6月6日
●朝鮮戰記
(五月廿六日仁川發通信)
◎朝鮮政府祕密を嚴守す 暴動地の形況は
監營より政府へ發する電報に因りて知るの
外他に探聞の便なき▣近日朝鮮政府は電報
總局に嚴令して完營及び錦營より來る電報
は一切他に洩す可らざる旨を以てし大闕內
に於ても三政六曹▣樞機に▣する者の外に
は決して洩さゞることに定めたり
◎韓廷の三度ビツクリ 今回の騷亂に就き
朝鮮政府の意外に出でたるもの三度に及べ
り昨年の東徒は一片の綸旨と魚允中の按撫
とにより容易に解散したるを以て今度も亦
此▣に據り說諭を以て鎭撫せんと謀りたる
に毫も其▣なかりしこと是れ其一なり旣に
說諭の效無きを▣めたるも八百の征討師一
たび其地に到らば渠等烏合の衆風を聽て潰
散するならんと想ひたるに却て反動の勢を
激して倍倍猖獗を逞ふするこ▣是れ其二
なり洋式の練兵を以て編成したる征討軍は
英氣凜然隊伍森然として向ふ所敵無からん
と恃みたる甲斐も無く其百人は脫奔して行
衛を知らず之が爲に軍氣大に沮喪したるこ
と是れ其三なり此の如く每事意外に出でた
れば韓廷の驚慌も亦其故なきにあらず
◎外兵借用の議排斤 ◎更に江華の兵を▣▣ 外兵借用の妄議 ◎轉運委員擒となる 仁川轉運局委員金悳 ◎官兵の脫走多し 官軍兵には全く勇氣な ◎牛馬を掠奪せられ運搬の途斷絶す 全州 ◎貢米は敵の有となる 八道中全羅地方は ◎糧米の欠乏 洪招討使が八百の兵を率ゐ ◎白山の戰 白山の戰に於て東學黨大勝利 ◎慶尙道の東學黨 慶尙道は何かに附て元 ◎忠淸道は格別の事なし 忠淸道の東學は ◎行商者呼戾しの照會 朝鮮政府より我が 外國人は無事ならん 昨年暴動せし時の東
て鎭壓せば一も二もなしとの無雜作なる議
論は早くも廟堂の一隅に起れり外兵と言へ
ば無論差詰め淸兵に外ならざるべし然れど
も朝鮮廟堂亦人あり何ぞ此妄議を容れんや
乍ち左の反論に依りて排斥されたり其要に
云く今や東徒の猛勢不測或は皷行北上の患
なしとすべからず最も痛悶に堪へたりと雖
も然れども內亂を鎭壓するに外兵を以てせ
んは啻に自主自護の大旨に背くのみならず
偶ま以て外國干涉の端を開き其後患言ふ可
からざるものあり殊に淸日孰れの兵を借ら
んとするも天津條約の現存を奈何せん若し
之を破らしめんか兩國の爭論は乍ちに開け
て八路を擧げて淸日交鋒の修羅場たらしむ
るが如き大事に至らんも亦計るべからず我
國の無事玆に十年なるも畢竟兩國條約の賜
と云はざるべからず之れを是れ問はずして
漫に外兵借用を言ふ亦た思はざるの甚だ
しきものなれば自今以▣斷して之を口にす
ること勿れ云云
は前項の如く全く▣却せられて愈愈征討軍
を增發するに決し江華留守兼海軍總制使閔
應植は去る十八日江華に下り▣所の營兵五
百を徵發し同營の中軍徐炳薰を以て之れが
總將たらしめ彈藥四十餘萬發を準備し閔應
植は見送り旁旁同伴にて去る廿一日來仁、
海上の食用として麪包一千斤を大佛ホテル
より買ひ入れ雨天にて石炭積込みに手間取
りたる爲め翌二十二日午後五時朝鮮汽船顯
益號及び海龍號にて全羅道に向ひ早速上陸
し全州監營に到り待ち設け居る洪招討使の
軍と合する筈なりと云ふ
容氏は性質溫厚にして內外人の評判宜しき
人なるが先頃從者二名を引き連れ群山より
漢陽號にて各處の貢米を集むる爲め出張し
たる所法聖に於て東學派に出逢ひ二名の從
者は卽坐戮殺せられ自身は擒となりて何處
へか連れ行かれたりと
く戰場の役に立たざるものあれば勇氣ある
も寧ろ官軍の爲めに働くことを欲せず賊軍
の爲めに死力を致さんとの考を懷くもの少
なからず自然將官の號令も充分に行はれ兼
ね憂慮も一方にあらざる由なりしが此頃の
確報によれば洪招討使が率ゐたる八百の兵
員中二百人許は何時の間にか營所を脫走し
行衛を失ひたるが其後の探訪によれば黑地
の制服を脫し白衣を着けて賊陣に雜り銃劍
を官軍に向け居る趣なりと云ふ
地方の東學黨は其後愈愈猛勢を逞ふし近傍
一帶の牛馬を殘りなく掠奪せしかば官軍は
物貨運搬の途全く斷絶し不便言はん方なく
此報京城へ達せしより廟堂の有司も大に之
を憂慮し此程顯益船にて兵員を增派する時
該一行が仁川港にて日本人使用に係る荷車
十五輛を購入し携帶したるは全く右等の爲
めなりと云ふ
米の産出最も多く政府の租稅は金穀二樣を
以てする中にも全羅地方は大槪穀物の一種
を以て上納する慣例にして各地方の貢米は
便利なる沿岸諸港に寄集し更に之を海路當
港に運遭する都合にて每年今頃は恰かも此
時期に到來し左水營、右水營、木浦、古今島、
群山の諸港に寄集せる貢米の數量は隨分夥
多なるが之を回漕せん爲め漢陽號にて出張
したる轉運委員金悳容氏の如き生擒された
る如きの始末にして今僅に出張回漕の見
込あるものは群山の一港のみ他の諸港は悉
く敵の爲めに遮▣せられ全く彼等の有に歸
したりとの事なれば此儘尙ほ日數を經過す
れば賊軍の糧食充分にして官軍の糧食缼
乏を見るやも計られずと云ふ
て仁川より群山に向ひ早速全州に着し監營
を固守し籠城的に敵▣睨合ひを爲し接戰を
試みざる間に城內糧食缺乏し粥を啜りて
僅に飢を凌き爲めに病患者を發したる由▣
て風說する所なりしが如何に東徒の勢猖獗
なればとて餘りとしたることゆゑ大に疑ひ
を存し確報の到るを期し前便にて其報道を
見合せ置きたるが其後確かなる邊より聞く
所に據れば全くの事實にて餘程困難の摸樣
なりしが此頃に至りては萬萬斯る患ひはあ
らざるべしとの事なり
を得たるが其詳報に據るに官兵は前後二軍
に隊を別ちて進擊を始めたるに前軍は敵に
圍繞せられ全く敗れを取り此報直に後軍に
聞えたれども最早救援の見込なく却つて我
隊までも危急の恐れあるより其儘兵を麾き
て本營に引き取れり然るに本營の大將は武
士にあるまじき怯懦の所業なりとて大に憤
怒し遂に將校は首を刎ねられたりと大將が
斯る處置に出でたるは寧ろ他に深▣のあり
たることならんも其結果は却つて反對に出
で禦くべからざる危險を避けたる爲め斯く
も殘酷の處罰を受くるならば斷然出陣せず
して處置せらるゝの優れるに如かずと不平
を鳴らす者少なからざりしと云ふ
來人氣惡しき土地柄なり而して昨年より本
春に掛けては地方官の苛斂無情に不平を鳴
らす者殊に▣きを加へ曩に咸安郡に暴動あ
り頃者殊に金海府に民亂ありて是等は一と
して不平熱の溢れ出でたる結果ならざるは
なし然るに又又最近報に據れば豫ねて洛東
江源の洛東山邊より此方尙州地へ掛けて出
沒し暗暗忠淸全羅の同志と氣脈を通じ居た
る東學黨員昨今全忠二道の同志と氣焰相呼
應したるものにや漸く勃興し始め其擧動兎
角穩ならず太邱監司以下各地方官は警戒
頗る怠りなしと云ふ
畢竟全羅道の東學に呼び起されたる姿にて
未だ格別の猛烈を現はすに及ばざりしが一
團の人民義勇軍起りて遂に懷德に屯聚せる
東徒を悉く擊破したるより同道は稍稍平定
に傾きたるが如し
駐在外務官に向け昨今所在暴民騷擾其危險
少なからざるに付貴商人の內地に行商する
者は悉く呼び戾されたく尙ほ自今行商に出
でんとする者も差止められたしと照會し來
りたるも各所に散在居所常なき多數の行商
人を呼び戾さん便もなく又區域を限らず一
體に行商を差止むると云ふは時體輕からざ
る儀なれば我が當該官に於ては昨今出願す
る者に對しては唯其意を諭すに止めたり
學黨が目的とする主義は種種茫漠の中にも
外人排斥の精神充分に想見せられたり然る
に這回の騷亂地には日本人は十數人滯在し
此他支那人及び歐米人等の旅行する者鮮か
らず或は彼等が其主義精神を實に現はし多
少の妨害を加ふることなきや大に懸念なき
能はざる次第なるが近頃同城方に▣ける佛
國宣敎師より當港某洋人の許に本年は更に
昨年の如き擧動なく寧ろ却つて親和を重ん
ずる方にて無事なりとの由を報し來れりと