6月7日
●朝鮮戰記
五月廿六日仁川發通信の續き
○金馬木蛇 韓曆四月十四日完營發招討使
の電報に云く派送の探偵者馳せ歸りて告げ
らく東徒の大將飛檄を傳へて云く我れ等天
使の來降を待ち其令次第にて事を行はんと
す現今吾下卒の巡行に際して囚はれたる者
五十餘名尙ほ曩日囚人と爲りて羅州に在る
者二十七名あり是れ最も無極痛駭の事たり
依て各部の諸將各各一千五百の兵丁を率ゐ
て金馬木蛇に來會せよ愼んで期を誤る勿れ
亦自餘の將卒は各各其部署を守り決して將
令に違ふなかれと彼の徒の不測この極に至
る駭然の事枚擧す可からず兵丁火速送發伏
して待と但し金馬木蛇とは彼の徒の間に用
ふる隱語にして恐く午の日の巳の刻と云が
如き期日を示したるものならんと察せらる
○全羅道の占領地 東學黨が全羅道に於て
占領せる地區を擧ぐれば左の如し
羅州 守兵八百餘(京城まで六十六里廿四町)
光陽 同千百餘(同七十二里十六町)
扶安 同二百餘(同五十里廿四町)
興德 同千四十餘(同五十六里)
高敞 同六百餘(同五十六里卅二町)
益山 同八百餘(同四十里)
首將及び副將の軍營は寶城近傍に在り總軍
都べて一萬六七百人、其他各所に屯在せる
ものを合すれば軍營總べて二十有七箇あり
東學軍の大將は鄭道令、左大將は徐▣角、
右大將は崔大雅なり
○內帑錢を以て兵丁に給す 全羅道東學黨
追討の爲め差向けたる兵丁は兎角逃走者や
罹病者多く先發八百の兵の如きは旣に餘す
處四百內外にまで減少し軍氣喪沮して振は
ざることは前便旣に報道せし處なるが國王
は之を憂へ內帑錢一萬兩(我三百圓內外)を
給與して獎勵したり
○地方官悉く更迭せん 這般騷亂の原因は
種種にして一槪に論ずべからずと雖も韓廷
有司は各地方官の苛稅重斂こそ其最たる要
素と認め該地方の監司府使郡守縣監に至る
まで一大更迭を斷行し以て聊か亂民の心を
和げ目下の急を緩めんことに決議せし由卽
ち次項に記する監司更迭の如き其第一着の
手段ならん歟
○全羅道監司の更迭 全羅道監司金玄鉉氏
は今度其職を罷められ上京を命ぜられ其後
任には外務協辨にして當時署理督辨たる金
鶴鎭氏を以て之に充て不日該地に出發せし
むる筈なり
○其他 地方官の更迭ありし二三の新任者
を揭ぐれば左の如し
忠淸道懷仁縣監 兪弼煥
同 懷德縣監 朴容奭
全羅道稱山郡守 李承純
同 龍源縣監 李鼎宰
猶ほ續續更迭すべしと云ふ地方官の苛政因
より直接に人民を苦めたるに相違なきも斯
の如きに至らしめたる者は果して▣ぞや東
學黨も亦啻に地方官の罷免のみを以て滿足
せざるべし元來政府が斯く地方官を黜陟す
るは全く或る外國使臣の忠告に出でたるも
のなりといふ
●五月卅一日元山發通信
○東學黨海印寺に入る 過日或行脚僧當港
に來りて語る所によれば東學黨海印寺に入
るの確報を或寺にて聞きたりといふ抑海印
寺は慶尙道陜川にありて八萬大藏經を藏す
るを以て名あり相傳ふ昔し加藤淸正は此寺
に亂入し此寺を荒したるの故を以て遂に其
志を果す能はざりしと今東學黨の此に入
るは或は此寺を城疊とさなん爲めにはあら
ずやとなり
○閔米の語鄭米と變ず 當國にては其國王
の姓の下に米の字を置くの習慣あり卽ち今
日にては閔米と稱し居ることなるが此頃は
誰れいふとなく鄭米と稱するものあるに到
れり是れ東學黨の首魁姓鄭なるを以ての故
なり又閔末と迷惑と國音相似たるより當惑
したる際誰となく閔末の語を用ふることの流
行するに至れり
六月二日釜山發通信
○東學黨の弔民文 五月八日を以て東學黨
が法聖邑の吏鄕に致したる通文左の如し
聖明上に在ませ共生民塗炭の苦に沈む其
故は如何民弊の本は吏逋に由り吏逋の根
は貪官に由り貪官の犯す所は則ち執權の
貪婪に由ればなり噫亂極れば則ち治とな
り晦變すれば則ち明となる是理の常なり
今我儕民國の爲めにする精神豈に眼中吏
民の別をなすことあらんや其本を究むれ
ば則ち吏も亦民なり各公文簿の吏逋及び
民疾の條件あらば凡て之を我儕に報じ來
れ當に相當處置の方ある可し希くは至
急に持し來つて敢て或は其時刻に違ふこ
と勿らんことを(其紙上にある押▣を見
るに守令の印信の如し)
通文尙一通あり
吾儕今日の擧は上宗社を保ち下黎民を安
んじ而して之れが爲めに一同死を指し誓
をなす者なれば敢て恐動を生ずること勿
れ玆に先途に於て釐正せんと欲する者を
列記すれば第一轉運營が弊を吏民になす
こと第二均田官が弊を去り又弊を生ずる
こと第三各市井の分錢收稅のこと第四各
浦口の船主勒奪のこと第五他國潛商が竣
價(前貸のこと)貿來のこと第六鹽分の市
稅のこと第七各項物件都賣利を取ること
第八白地(未墾地)に徵稅し松田に起陳す
ること等臥▣の拔本條條の弊疾盡く記
すべからず此際に當り吾士農工賈四業の
民が同心協力して上は國家を輔け下は死
に瀕せる民生を安んずること豈に幸事に
あらずや
○運糧官任命の請求 洪招討使は以聞して
曰く出陣するに際し軍糧の豫備一日も缺く
べからず益山の人鄭元成を擧げて運糧官に
撰擇あらんことを▣ふ云云(五月十九日招
討使報による)
○忠淸の摸樣 鎭岑に在りし東學黨は旣に
散じ去り靑山沃川亦動靜なし而して中には
歸順するものあれ共之れには全く信を措き
難し又全羅監司は此頃電報を忠淸監司に送
りて「南方の黨人益益猖獗の勢ひあれば隣
道の戒嚴毫も疎忽なるべからず」と申し越
したれば忠淸監司も前きに恩津沃川兩邑要
害の地に分遣し置きたる淸州營二百名の兵
を移して其防禦に充つることゝなる
○招討使の進軍 洪招討使去廿三日其兵を
東學黨が集會せる地靈光に進めり
○東學軍靈光より去る 招討使の軍勢陰曆
十九日の午時に井邑に到り敵の樣子を探れ
ば靈光に於ては黨軍共京軍が絡繹として路
を分ち進み來る由を聞き同十五日の辰時に
至り其徒一萬餘名のもの一同退ひて咸平の
地に向ひたりと云ふことなれば同廿日には
陣を興德に留め置き以て敵の後路を絶ち更
に又羅州牧使を指揮して要害の地を嚴守せ
しめ而して江華營の兵が到着するを待つて
首尾攻擊の計を實行せんとす(五月二十日
招待使報に據る)
○咸平の黨軍 咸平にては陰曆十六日の申
時に當り東學人六七千名俄かに靈光の方よ
り入り來り旗を押し立て頻りに發砲せしが
其內には銃鎗を手に提ぐるもの數百名あり
又馬に騎る者甲を被むり戰笠を着けたる者
もあり色巾を以て頭上を包みたるもの特に
尤も多し而して各各邑中を衝き廻り進んで
政事堂に向ひければ吏校奴令及び守城軍の
徒數百名力を合して之を悍禦したりしかど
も竟には敵の爲めに官門を破碎され其折亦
吏奴令輩の傷けらるゝ者過半數にて餘は皆
潰散せり是に於て敵は陣を各廳內に留め衆
に供すべき糧食は亦市中饒富の家より徵發
せるが地の縣令は能く黨人の入來を歡迎按
待せざりし罪を以て決棍せらる
○靈光急報 東學黨は嚮きに一同靈光より
引き退ひて他方に向ひたるに陰十七日又又
數千名の黨人何處よりとも知れず急に襲ひ
來り直に郡中に亂入して火を軍器庫に放ち
たる爲め戶籍迄も凡て燒失せしめらる彼等
は尙ほも進んで官門を破碎したるまゝに當
日又何處とも無く還り去りたり郡民其來去
の神速なるには一駑を喫せり
○轉運使の攻擊せられたる源由 沃溝の群
山、靈光の法聖、共に東徒の大擧して轉運船
を攻擊し轉運使を苦しめたるは▣原因啻に
民人に起るのみならず諸邑の吏員も運轉の
爲め疲困して東徒に雷同し內外相應じて轉
運を遮ぎりたるが爲なりと云ふ
○官軍の死亡數 招討使營中よりの報告に
依れば當初より今日(五月二十四日)に至る
まで土兵の死するもの三百餘名、京軍の斃
るゝもの十二名なりと云ふ
○務安に在る黨人 本縣三內面に在る東學
の徒七八千名半は馬に騎り半は徒步なるが
身には孰も甲冑を被むり手に亦長槍大刀を
取り陰十八日一夜留宿の後羅州路指して進
發せりと
○按覈使李容泰氏の配竄 最初全羅道古阜
に於て民亂の起るや韓廷は李容泰氏を按覈
使として全羅道に派遣せしめたり然るに氏
は病と稱して發せず爲に議政府の上奏彈劾
に遇ひ國王殿下の筵罷する所となり五月十
一日遂に配竄の刑に處せられたりと云ふ
○東徒旅裝して仁川に入る 東徒旅裝して
仁川濟物浦に來り轉運司委員一人を誘引し
遂に船に載せて蹤を晦ませり恐くは是れ東
徒中曾て轉運司に宿怨あるものゝ所爲なら
ん然れども遠く仁川に來て此不敵の所業を
行ふに至りては實に驚くに堪へたり
○銃丸盡く 興德の駐軍銃丸缼乏し急に補
缺送付を全州京軍に請求す(五月廿六日招
討使報)
○京兵の負傷者 數日前京兵の負傷者一人
廿名計りの附添兵士と共に戰地より歸り來
り京城に開業せる我醫師の許に往ひて施術
を乞ひたる由なるが負傷後何の手宛も無き
儘に最早一週間餘も過ぎたれば皮肉腐爛し
臭氣紛紛たりしと
○黨軍三所の根據 東學黨今や三所に分れ
前軍は靈光に據り中陣は咸平に駐り面して
後軍は務安の地を守り三所奇角聲援をなし
て旌旗百里の間に飜翻たりと
○黨人書を監營に投ず 東學軍書を全州監
營南門の外に投ず因て之に開き見れば中に
は次ぎの文言を書き連ねたり其文に曰く
王兵には決して抵抗せず、鄕軍來らば伐
て之を走らさん、貪官は必らず之を逐掃
し、姦臣は誅滅して其餘類を留むること
なからん是れ卽ち生等一同が輔國安民の
本志なり故に假令へ百年の日月を經ると
雖も我が此志を遂げざる間は劍折れ矢盡
くるまでも決して解散することなし云云
(以下二面にあり)