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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
  • 기사명
    明治27年 6月 8日
  • 이미지
    prd_0133_023 ~ prd_0133_028 (411 ~ 416쪽) 이미지
  • 날짜
    음력 1894년 05월 05일
일러두기

6月8日
●朝鮮戰記
●六月三日釜山發通信

○脫走の朝鮮士族 曩に十五年の變亂に
方▣閔族の誅を免がれ咸鏡道に脫走せし千
餘名の士族東學黨に加はり居るとの說あり
萬一此說をして眞ならしめば此士族輩は軍
事に精練なるもの多く刀鎗銃砲の使用にも
熟し居るものなれば由由敷大事なりとて閔
族の心痛一方ならず目下其方面に細作を派
し居るといへり

○東道大將軍李氏の出生地 晉州より西方
三里に新營村と稱する所あり住民一千餘名
に過ぎざれども一村を擧げて東學黨なりと
云ふを以て有名なり過る陰曆四月の頃より
村內男女一人も殘らず孰れへか脫走したる
由而して其一千村民の魁首と稱するは本年
僅か十三四歲の少年なり是より先き同村に
は屢屢不穩の摸樣あるより府廳は此少年に
說諭し民心の鎭撫を委囑したれども少年は
之れに應ぜざりし今隣邑の人の語る所に依
れば此少年は才智衆に秀で文藝武術達せざ
るものなく其思慮動作殆んど成人の風あり
仁慈の心に富み從來久しく神人を以て目せ
られ居たりと之を彼の東學軍の大總督たる 東道大將軍李氏に對照するに其年齡人物出
生の地一として符合せざることなければ此少
年則はち走つて遂に衆の推戴する所となり
し者ならん

○白巾黨 全羅東學軍の中には白巾黨と稱
して猛烈無雙の一派あり而して此の黨派こ
そ亦實に同軍中に在て之が中堅となり自餘
幾多の末派輩を指揮左右するものなりと

○黨人跋扈 全羅道扶安と云ふ所の府使過
日突然東學黨人三名を引捕へて之を打殺し
たるに其事何時の間にか東學黨にも洩聞え
ければ同黨人一千餘名は翌日同府衙に▣向
ひ俄かに之を取圍んで攻立てければ府使は
ホウホウの體にて京城指して逃げ行きたり
又同じ領內にて府衙よりは程遠からぬコグ
ミと稱する邑に一棟の倉庫ありこの倉庫は
常に上納米を貯へ置く所にて何時も數千石
の貯へ米ある所庫の監守役今府衙襲擊の擧
あるを聞くや是れも亦直ちに孰れへか逃亡
せり因て右庫米も東學人の手に落ちたりと

○官兵▣軍に降る 過日東軍の略取したる
全州は京城を距ること六十餘里全羅道第一の
都會なり監營あり新式の兵七百及土着の兵
四百を備ふ金文鉉之が監司たり監司は行政
司法、軍權を掌握し其威力頗る强大なり本
年東學黨の起るや政府は最初は例の暴動と
認めて敢て意に介せざりし然るに東學黨は
昨年とは其軍略を異にし地方侵略に力を用
ひず一擧に全州の監營を陷れんことを謀る政
府は之れを知りて大に狼狽し數百の援兵を
出して之れを追討したり然れども東學黨の
勢ひは頗る猛烈にして遂に全州の監營を陷
し武庫を發きて砲銃刀劍を掠奪して數倍の
勢力を增したり玆に於てか監司隸屬の兵士 等も大に恐怖し遂に東學黨の軍門に降りて
彼の味方と爲り以て官軍に敵するに至れり
東學黨が數日の間に全羅一道を席卷し又容
易に石城を陷したるもの全く以上の兵器を
得たると官軍の兵士を味方に引入れたるよ
り出でたるものなり

○監司の異動 全州前監營金文鉉は騷亂を
未發に鎭壓すること能はざりしを以て免黜せ
られ後任、前外務督金鶴鎭は未だ程を發
せざるに全州陷落の報に接し今尙ほ京城に
あり全羅道一帶は目下全く吏人の片影なく
盜賊蜂起し良民塗炭に苦めりと云ふ

○漏すものは斬に處す 韓廷は太く東學
黨の動靜、外に洩るゝを恐れ何人にても其
消息を他邦人に傳ふるものは直ちに斬に處
すべき旨公布せり故に仁川、釜山等にても
同國人は一切緘默して何事も噂せざるよし

○朝鮮征討軍の將校 去月二十二日午後五
時朝鮮汽船顯益號及び海龍號の二隻に搭じ
て江華島より全羅道に差遣せし官兵五百人
(彈藥四十餘萬斤、麪麭一千斤積▣)の內大
將其他の役員は左の如くなりし

出駐大將徐炳薰○亞將李鐘大○兵使縣監
李容仁○前哨哨官趙重鍊○中哨哨官劉錫
淳○別哨哨官崔浩成○策應監官宋泰赫○
鍼醫宋植起○中哨書記朴順英○右哨書記
金重聲

尙中營とて書史一人、京總直一人、廳直一
人、巡牢六人、色驅二人、驅徒二人ありて全
軍は十人を以て一隊となし每隊什長一人を
置きしと云ふ

▲五月二十七日京城發通信

一朝東學黨の叛旗を▣すや風を望んで來り
應ずる者甚だ多く連戰連勝殆んど一潟千里
の勢ひを以て全羅大半の要所を占領するに
至れり故に今日古阜石城等に於ける兩軍の 勢ひを察するに賊軍は日夜に其勢力を倍し
官軍は日夜に其勢ひを沮喪するの有樣にて
到底官軍の勝利は覺東なきものゝ如し殊に
賊軍は地方富商豪農の爲めに夥多の金穀を
貯へ糧餉には毫も差支なし只只困難なるは
軍器の破損を修補するに道なく且其不足を
補ふの術なきにあるものゝ如し但し軍中に
は大工其他技術に巧なる者もありて木砲弓
箭等は自在に製造し又例の投礫術に長じた
る者七十餘名一手になり接戰の際には必ず
先登して官兵を惱ます由なるが其術の巧妙
なる四十間以內の距離に於ては百發百中一
として之を誤るなく現に石城の接戰には三
十餘名の官兵を斃したる由又其戰隊を分つ
て砲銃隊、鎗隊、弓隊、投礫隊、斥候隊、
騎兵隊、輜重隊とし、此他會計、糧食、醫師
等の備へ充分にして之を官軍に比すれば其
勝る事數層なりと云ふ

又爰に一種の怪說あり曰く東學軍の猛烈な
るは云ふまでもなきことなるが其神出鬼沒
實に不思議の幻術妖計を運らすは全く神佛
の應護に依る現に彼等の先陣にはいつも影
の如く又烟の如き一個の將軍現はれ軍扇を
以て東學軍を指揮し其進退掛引をなす實に
陽災稻妻の如し右は神佛を非らざれば彼れ
金玉均の靈魂ならん抔種種樣樣の怪談妖言
を傳へ甚しきは王父大院君夜に乘じて賊軍
の陣頭に赴き祕計密謀を授けて進退せしむ
るが如く風說する者あり其今日の狀況全
く我十年西南戰爭の時と同樣老幼婦女子に
▣るまで日夜戰爭の噂にのみ日を消しつゝ
ありと云云

●全羅忠淸兩道各地の里程 今其筋の調査
に係る朝鮮全羅忠淸兩道各地の里程(京城 を起點とするもの)を聞き得たれば左に揭
げて參考の一端に資す

朝鮮內亂地圖
一咸鏡道 二平安道 三黃海道 四江原道 五京畿道 六忠淸道 七慶尙道 八全羅道

自京城至全羅道各地里程

全州 四十四里十六丁 靈光 六十三里四丁
羅州 六十六里廿四丁 馬山 四十二里廿丁
濟州 陸路八十三里廿丁
水路八十六里八丁
光陽 七十二里十六丁
光州 六十四里 扶安 五十里廿四丁
順天 六十八里十六丁 金堤 四十七里四丁
礪山 三十八里 興德 五十六里
益山 四十里 高敞 五十六里卅二丁
▣巖 七十二里卅二丁 魚陽 七九十里四丁
珍山 四十里 大靜 濟州る距ること十里廿四丁
昌平 六十二里八丁 ▣安 七十里八丁
臨波 四十三里廿丁 龍安 卅七里十二丁
綾州 ▣十六里廿四丁 谷城 五十九里廿丁
長興 七十九里四丁 茂長 五十九里廿丁
長城 五十九里廿丁 海南 八十里
寶城 七十五里廿丁 和順 六十七里廿丁
古阜 五十三里十二丁 玉果 五十八里廿四丁

自京城至忠淸道各地里程

忠州 廿四里卅二丁 懷仁 卅一里四丁
公州 廿八里十六丁 靑陽 廿八里十六丁
濟州 廿五里廿八丁 懷德 卅里八丁
洪州 廿六里廿四丁 ▣▣ 卅五里廿丁
林川 三十五里廿丁 魯城 卅二里卅二丁
泰安 卅四里廿四丁 石城 卅四里廿▣丁
舒州 廿六里廿四丁 牙山 十八里廿四丁
丹陽 卅二里卅三丁 淸風 三十里八丁
韓山 三十九里四丁 恩津 卅五里廿丁
沔川 廿七里廿丁 漣山
天安 十八里廿四丁 鎭川 廿一里十二丁
沃川 卅六里十六丁 結城 廿七里廿丁
德山 廿四里卅二丁 木川 廿一里十二丁
大興 廿四里卅二丁 燕岐 廿五里廿八丁
瑞山 三十一里四丁 庇仁 卅七里十二丁
文義 廿九里十二丁 永春 四十一里廿八丁
報恩 卅三里廿八丁 全▣ 廿一里十二丁
鴻山 廿六里十六丁 保寧 卅一里四丁
稷山 十六里 永同 四十一里廿八丁

附記京城より仁川までは四里十六丁、釜
山までは同八十八里三十二丁、元山まで
は同百三十里八丁なり

●朝鮮在留の日本人 雞林の風雲轉た急
なり此安危關心の地に我同胞の在るもの幾
許ぞ最近の調査に據れば左の如し

仁川 (明治廿六年十二月現在外務省▣)
戶數 四百廿六戶
人口 二千五百○四人 男千五百三十人 女九百七十四人
釜山 (九月現在)
戶數 九百七十五戶
人口 四千五百五十人 男二千四百八十七人 女二千○六十三人
元山 (同六月現在)
戶數 百七十二戶
人口 七百六十四人 男四百八十五人 女二百七十九人
京城 (明治廿五年末現在)
人口 七百四十一人
合計

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