6月12日 前便報ぜし如く外兵借來の妄議は全く排除 ○京兵と東軍との槪勢
曩に發したる招討軍は其の本旨固より按撫 抑も騷亂の起點は古阜に在り東徒は暫く此 記者云ふ此報は去の全州陷落前に係るも ○東學人の義氣 韓曆去る十九日の頃東學の一隊整整堂堂全 ○忠淸道の摸樣 忠淸各地は前便にも報 ○平安道の摸樣 平安道にては曾て報じ ○公州の大市 朝鮮にて大市と云へば ○罰せられたる地方官 民亂に由りて旣 ○監司の交迭 黃海監司洪淳馨と京畿監 ○漢陽號遭難の詳報
汽船漢陽號が東徒の爲めに難に遭ひ又轉運 ○全州の陷落 招討使は兎角に兵數の不足を認め該地に於 右百五十人は全く民兵にあらずして東徒が 右は去月三十一日完營より發したる電文に 記者曰く全州監營は恰かも我邦西南暴動 ○更に平壤の兵を發せん
官兵の大敗報は來れり援軍の急派を要請し ○長城の戰況(官兵の敗走) 五月廿九日 ○政府の狼狽 朝鮮政府は全州の一大敗報に接し驚骸震懾 ○逃亡の準備に忙はし 韓官の重なる向 ○招討使、完伯の安否 招討使洪啓薰の ○淸國士官あり 淸國士官十七名全州陷 ○國王の赫怒 官軍の敗報類りに到るも ○趙外務督辨の出勤 外務督辨趙秉稷は
●朝鮮特報
○懷柔政略
せられて招討軍は更に增發されたりと雖も
聖慮は飽までも按撫に在て討伐にあらず
啻に討伐にあらざるのみならず尙ほ一層按
撫の意を擴め懷柔の實を示さんため全羅監
司の交迭を第一着手として大に兩湖の大小
地方官を改撰し處罰して其非政失御を認む
ると同時に昨年の例によりて綸旨を發し先
敎後刑の意に基き一旦膂從附和したる者も
此際飜然歸順するに於ては其罪を問はず歸
家安業を許すべき旨を以てして反復曉諭の
後尙ほ頑然悛めず散ぜざれば初めて赫とし
て討滅に附すべしとの議に決し金文鉉に代
りて新たに全羅監守に任ぜられたる金鶴鎭
は 撫諭の爲めに下されたる綸音を携へ去
月廿八日京城を發し赴任の途に上れり
に在れば招討使も持重して漫りに兵を動か
さず只完營近傍の各邑に屯聚せるものを遠
捲きに追ひ拂ふに過ぎず東徒も亦た旗色を
正して京兵に向はんとはせず寧ろ東西に出
沒して務めて其の蹤跡を隱晦するの策を取
りたれば京兵の斥候又は巡邏の爲めに徘徊
する途中偶ま東徒と出逢ひて小鬪を開きた
る位ゐの外未だ京兵と東軍との間には花花
しき戰ひを爲したることあらず但し是れ迄
に數度の戰ひを以て互ひに殺傷ありたるは
專ら監營の兵士との取合なりと知るべし去
れば官賊兩軍に就て一部局の一勝一敗は兎
も角も大體より其の勝敗如何を判定すべき
由もあらずと雖も今地理上より兩軍驅逐の
跡を點點檢し來れば其の大勢を認むること
難からず乃ち左の如し
地を根據として其近傍なる金堤、萬頃、金
溝、泰仁等の間に出沒したるが招討軍の一
隊全州を出でゝ井邑に進むに及び彼等は軍
を纏め興德を經て茂長に退きたり官兵は次
第に其跡を追ひ東徒は次第に繰引きにして
靈光に退きこゝにて兵を三手に分ち一手は
靈光に止り一手は咸平に一手は務安に引揚
げたり依て招討軍は尙ほ追北して頻りに進
む折柄去月廿二日顯益海龍の兩船に乘じて
仁川を發したる江華の軍隊は遙かに進んで
木浦より上陸し賊の前路に出て招討軍は南
下して其尾を攻め江華軍は北上して其の前
路を斷ち切り雙方より合擊するの略に出で
たり然るに東徒は早くも此機を知りたりけ
ん三所分屯の兵を合して一體と爲し長驅し
て羅州を越え長城に入りたれば是より官兵
は又其の跡を追て長城に向はんとするなり
驅逐の蹤▣は大略此の如くなれば東徒の初
め古阜を出たる後は海道を沿ふて南へ南へ
と引去りたるが兩軍の合擊を避けん爲め務
安よりは一轉して少く山路を取り再び北進
逆行して長城に入りたるなり又東徒の軍勢
は官電の報ずる所にても常に數萬の上に出
づるが如くなれども或る實地踏險者の說に
依れば陰に聲息を通ずるものは知らず表面
に立て實際運動する者は五千人に過ぎず此
の外に役夫の如きもの三千人餘ありと云ふ
のなりと知るべし
羅の或る部落(今は其名を逸す)を通行す土
人豫て此風を傳聞せしものと▣え全村擧つ
て何處にか逃亡し人影を見ず然るに中途唯
一人悄然として佇み居るは年齒僅かに十四
五なる幼童なり東徒訝りて其の所以を糺す
幼童曰く兒は此地の者に非ず他鄕の者なり
今此の處に在るは兒が家素と赤貧衣食の以
て給すべきなく僅に兒が少資薄利なる商▣
の所得に賴りて慈父母の口を糊する而已然
れども這回の事變大いに商路を閉塞し釐毫
の胸算なし何の面目あつて而して父母の闕
を越えんや惟それ兒が決する所のものは潔
よく貴黨の刃に斃れんのみ言ひ了つて神色
目若たり左なきだに當初以來民心を收攬し
て自黨の勢力を張らんと志ざせる彼等のこ
となれば此の憫然なる一場の物語は遂に彼
等をして衣に大なる印を押捺し(危害を被
らしめざる印章ならん)而して尙ほ十兩の
錢を與へ懇ろに其の不運を慰撫して歸らし
めたることなど遠近に傳はり彼の徒の好意
益益遠近に加はり東西風に靡きて來り會す
る者多しとぞ
ぜし如く格別の事なしとするも監司府使等
の狼狽一方ならず各各其部下の村村より壯
丁を召集し何時にても間に合せの兵隊を組
織し得る樣手筈せる由にて何時大事の起ら
んも計り難しとて心配一方ならず到る處騷
亂の話のみに時日を經過し居ると云ふ
たる如く未だ民亂とては起れるに非らずと
雖も何分地方官の虐政に堪へ兼ね東西呼應
沸沸として一朝生を堵し巨魁たらん者現は
れなば忽ち一大騷亂を惹起すだけの要素は
充分にこれありと云ふ
忠淸道公州、慶尙道大邱の二を推す每年今
頃は公州大市開設の期にて各道の貨物悉く
玆に集散し居留外國人の行商する者も鮮な
からざるが本年は例年に異なり東學黨騷亂
の爲め何時開市せん摸樣なく人心恟恟商
賣どころにはあらずと云ふ
に大小の刑罰に處せられたる地方官は金海
府使趙駿九、忠淸兵使李庭珪、古阜郡守趙
秉甲、魯城縣監黃學淵等なり
司金奎弘と入り代り慶尙監司李容植罷めら
れて忠淸監司趙秉鎬之に代り忠淸監司には
李憲永新たに之に任ぜらる
委員金德容が捕縛されしことは已に電報に
て通じたるが今其詳報を記さんに同汽船は
去月八日蒼龍船及び支那軍艦平遠號と共に
八百の官兵を分載當仁川港を出發し群山に
着したる後平遠、蒼龍二船が前後して歸仁
せしに拘はらず貢米運搬の爲め其儘同地方
に滯泊することゝなりたるが越えて同月十
九日貢米積載の爲め群山を發して南の方法
聖に向ひたり此行の乘員は貢米受取の爲め
仁川より出張したる轉運委員金德容と同
地方の貢米を集めて引渡す爲めの轉運委員
鄭萬基なり却說此鄭と云ふは性來殘酷なる
男にして貢米を徵收するにも常常不法の所
業多く折もあらば宿怨を晴さんとて衆民よ
り狙はれ居りたる爲め自身も用心一方なら
ざりしが此度漢陽號に密乘して法聖に向ひ
たるよし東學派の探知する所となりそれと
は知らず汽船は法聖に安着し錨を投じて火
力を弛め今更に出帆せんとするには再び火
力を强め其用意に若干の時間を要するの頃
卽ちイザと云つて急に出港なし能はざる時
陸上より官署の使なりとて船長(日本人)に
急速上陸ありたき旨の書狀を持來りければ
船長は何心なく之に應じて上陸せし其跡へ
東學の徒凡そ三百人唐突凶器を持ち何處よ
りか押し寄せ來り彼れ是れ云ふ間さへなく
同船に乘り移り群聚口を揃へ大聲あげて鄭
萬基を引渡すべき旨を呼はつたり金委員始
め四名の日本人等は豫ねて鄭の言ひ含めあ
ることゝて亦た口を揃へて左樣な人は搭乘
し居らずと答へたり玆に於てか東徒の群は
大いに怒聲を發し詐る勿れ勿れ吾等は彼れ
が群山より密▣する時疾に之を探知し本船
の着港に先んじ陸上間路より此處に來りて
待ち伏せ先づ船長を欺むきて上陸せしめ而
して玆に寄せ來りたるからは豈夫れ容易に
汝等の虛構に欺かれおめおめ此場を立ち去
る者ならんやと言ひも了らず忽ち荒繩もて
金委員を嚴縛し續いて四名の日本人をも捕
縛し何處となく皮膚に紫色を呈するまで亂
打するものあれば又他の一方には此處彼處
と鄭の所在を搜索するもありしが稍稍あり
て鄭が船底の石炭を稍みある中に潛伏なし
居るを發見し何の容赦もあるべきぞ忽ち嚴
重に締り上げ之を甲板に引き出し尙ほ船員
に向つては汝等官兵を搭載し來る抔とは以
ての外の不▣なりと云ひつゝ又もや散散に
亂打し鄭と金とを陸上に拘引し一匹の瘦せ
馬を連れ來り鄭の頭部を馬の臀部へ鄭の足
部を馬の首部へ上向きに鄭と馬とを脊合に
爲し尙ほ兩手を逆▣となし丸木など添へて
少しも動かれざる樣縛附けられ警衛嚴重咸
平に向つて引揚ぐる途上其儘之を砲殺せり
と云ふ而して金委員は別に彼徒の爲めには
惡事なければ多分後日放免するならんとの
事なり又漢陽號は此暴行に遭ひし爲め東徒
引揚げ船長の歸船するや直ちに錨を斫捨て
一目散に群山を目指して進行し引續き▣用
船として群山に滯泊し夫より昨一日夜九時
頃無事仁川に歸着したりといふ
て臨時に民兵を徵發せんと欲し一の關文を
發して各邑各里より三四十人づゝを召募す
ることに着手したり然るに或る日の事とか
百五十人の民兵一隊陣門に來りて慇懃に徴
發に應じて馳せ參りたる旨を述べ其證とし
て右の關文を示したれば招討使も何の疑ふ
所なく大に其義を賞し手厚く取扱ひ直ちに
之を隊中に編入したり夫より招討軍は東徒
の長城に在るを擊ん爲め進軍して長城の近
傍月坪に至りたる時東徒に出逢ひて開戰中
右百五十の民兵は一聲の合圖と共に忽然二
た手に分れて左右より挾擊し京兵は三方よ
り合擊されたれば全軍潰裂人馬踏籍散散に
薙ぎ倒され算を亂して斃れたるもの四百人
に餘り僅に殘れる敗兵も只雲霞と逃げ失せ
たり是より東徒は勝に乘じ進んで全州を距
る三里の所に迫り其午後に至りて終に該營
を乘取りたり
詭計を設け關文を僞造したるか又は奪ひた
るか民兵に扮して入込みたるものならん
依て知れたり但し同日の同營發の電報は午
前に一通亂徒三里內に迫れりと云ふ事午後
の一通は旣に城下に迫れりと云ふ事右二通
のみにして其後同營は賊の有に歸したれば
電信全く不通となれり完營にては一介の兵
士を留めざるのみなら▣將庶吏より給仕の
童子に至るまで影を止めず逃げ失せたるよ
り最後の電信は監司親ら局に至りて發した
るなりと云ふ
當時の熊本城なり熊本城にして斃れん歟
賊軍の猖獗、官軍の慘狀知るべき而已今
それ全州敗れんか忠淸の危急其れ極まれ
り若不幸にも忠淸にして倂呑せられんか
漢城の壘柵必ずしも堅牢なりと謂ふ可か
らず大波瀾は眼前將に起らざるなしとせ
ず嗚呼其成行果して如何
來れり廟堂諸公素より處置なくんばあらざ
るべし一昨卅一日の夜十一時頃仁川府總制
營の兵士七十餘名は此敗報には關係なく單
に全羅の貢米警護の爲めとかにて監理署執
事南某に率ゐられ汽船蒼龍號に搭乘し昨一
日今や纜を解き法聖に向はんとする處へ午
前十時發急電を以て政府は▣船の出帆見合
せを命令し來り引續き十一時二十分發電信
を以て麪包三千斤を今日中(卽ち昨日)に製
造せしめよとの命令或る方に達し早速製造
所へ注文せし如き次第なれば政府は全州の
急報に接し援兵を發することに一決し俄か
に蒼龍の出帆を差止めたるならんとは一般
の豫想せし所なりしが昨夜九時頃平壤の兵
丁六百名は明日(卽ち今日)着仁、蒼龍號に
て南道に向ふべしとの急報ありしに付前夜
來仁せし七十名の兵士は漢陽號にて出發す
法聖發の通信によれば官賊兩軍曾來の動靜
を見るに官軍は靈光に假營を設け賊軍は長
城の傍なる山腹に占據し唯兩軍相互に擧
動を窺ふ而已なりしが官軍は兵を二隊に組
織し一隊は二百名に大砲二門を備へ高敞を
經て又一隊は五十名に大砲二門を備へ森溪
を經ていづれも賊陣を目指し出發せしは五
月廿七日午前四時頃なり同午後六時頃長城
に着す賊軍は其數漸く百名に過ぎず甚だ虛
あるが如し官賊陣を隔つること僅に三四丁
相互に銃擊を始めたるに賊兵は次第次第に
多數となり殊に又左右兩方より伏兵蹶起し
其人員數千に達し其勢ひ破竹の如く官兵は
僅僅一時間を經ざるに業に已に大敗し砲兵
士官一名は生擒せられ尙ほ大砲六門を橫奪
せられ死傷者實に百數十人の多きに達せり
と云ふ(記者云ふ此の通信と全州の敗報と
を參照すれば陷落前數日の光景を知るに▣
て大に便あらむ)
し在京各營の兵士等が慟哭號泣の聲は四方
に達し城內は俄かに非常なる戒嚴を加へ又
敗報の漏洩せんことを恐れ若し之を話すも
のあれば捕縛せん勢ひありて新聞通信員抔
に懇意なる韓人には特に注目し居れり
は全州の大敗報に恐怖一方ならず必定近近
京城を襲來するものと締め弗弗逃げ仕度を
爲し非常に祕密の方法に依り家財を頻りに
田舍地方へ運搬せしむるもの多しと
生死は未だ判明せざれども多分戰沒せしな
らん完伯金鶴鎭の生死も亦た判明せざれど
も是は逃亡したるならんとの說多し
落まで監營兵將統軍の顧問として働けるは
事實なりしも遂に大敗せしなりとの說あり
韓廷官吏は深く之を祕して國王に奏せず全
州の陷落に及び始めて國王の聽に達するや
國王は大いに怒り給ひて嚴しく閔泳駿を責
められたりと
病氣引籠中協辨金鶴鎭之れを代理せしが今
回全州監司に任ぜられたるに付趙督辨は出
勤を命ぜられたるに依り病を勉めて事を視
ると云へり