6月21日
●韓廷の驚駭、袁氏の狼狽
大鳥公使が海兵を率ひて京城に入るとの報 ●和歌浦丸着仁の景況
和歌浦丸は一の戶少佐の率ゆる若干の兵を ●外人大に我軍隊の敏速に驚く 往年普 ●京城仁川間の連絡 我混成旅團は京城 ●聞捨てならぬ朝鮮の變事 三四日前朝 ●淸國開戰の準備か
去る十七年淸佛戰爭の前に當り淸國政府は ●文祿の役と我兵の入韓 豐太閤文祿の ●長崎に淸國軍艦七隻來らんとす との ●全州に於ける官兵と東兵
忠淸監營に在る石井某よりの書簡なりとて ●義州線不通の原因 は全く大雷雨のた ●淸國吉林の變亂 ば該地方の租稅を▣ ●朝鮮弊政の一班 東學黨の蜂起は他に ●李鴻章の狼狽に就て 今回吾邦より朝 ●訛傳 海軍少佐新納時亮氏は東軍の首 ●府▣屬官收賄談 と題し前號までに續
韓廷に聞ふるや其の驚駭一方ならず卽時廟
議を開きたるが斯く日兵が速かに渡韓せし
は畢竟韓廷より淸國政府へ援兵を請ひたる
爲めなるべし左れば日兵の撤去を請求する
には第一援兵請求は韓廷の決議にあらざる
を表明するため高等官一名を犧性
當の罰を行ひ第二袁世凱に嘆願して未着の
淸兵を中途より撤去せしむるの外なしとの
策に決し犧牲の役人は閔泳駿▣▣引受る事
となり援兵中止を袁氏に計りしに世凱は之
に答へて淸兵は已に裝を整へ途にあれば今
故なく撤去せること能はざれど日淸兩兵一所
に駐在する時は衝突の憂あれば余自ら仁川
に赴き大鳥公使に面會して日兵の入京を拒
むべしといひ自ら仁川に下らんとせしに其
日は强雨甚だしければよも此强雨に日兵の
入京はなかるべしと一日遷延せしが其間に
日兵は機を誤らず入京したれば世凱の策ガ
ラリと▣▣し爲めに大に周章狼狽したりと
聞く扨又日兵は始めより兵器糧食其外凡て
正式に艦內に積込たるを以て悉皆之を陸揚
し兵士の進行するを得▣▣でには三四時間
を▣すべき豫定なりしに實際仁川着港の節
は案外にも前後一時間にて悉皆陸揚し數百
の海兵規律正しく海岸に整列し聲高に三度
祝意を表したれば在留の各外國人は日兵の
迅速なるに驚嘆し皆皆海岸に集り日兵を取
卷き珍らしげに見物したる由夫より大鳥公
使を始め皆皆時を移さず强雨を冒し京城に
入り帝國公使館の丘上に假陣を搆て此日よ
り喇叭の音▣ましく京城の滿街に響き日章
の國旗日頃に倍して色鮮かに見えしといふ
▣せて去九日の午前八時廣島縣宇品を發し
直行して同十二日午後二時仁川港の沖一里
許の海に投錨したり斯と見るや豫て待設け
たる我水兵忽ちに漕付て彼是と周旋し艀船
には軍艦付の端艇三十餘艘之に會社船の分
又び小汽船を加へ兵士の上陸に着手し三時
間にて奇麗に上陸せしめ六時間にて荷物を
卸し畢りしが兵士の上陸は支那軍艦(四艘)
及び米、佛、英(各一艘)軍艦の鼻先にてなし
たれば我海軍の軍人中心竊かに我面目を施
したるを喜ぶの樣ありしと實は始め宇品に
て棧橋より本船まで五丁の處を三時間に悉
皆兵士を乘船せしめたる手際には和歌浦丸
の船員も其迅速なりしに驚きしに仁川にて
は一里許の距離を三時間內にやつて除たれ
ば一層其迅速に驚嘆したるが其驚きは唯り
和歌浦丸船員のみか各國軍艦の將士も爭ふ
て其上陸の實際を目擊し是亦其意外に速か
なりしを賞贊し或る將校の如きは淸國の牙
山上陸に比すれば淸兵の五日間を要したる
分を日兵は僅かに八時間にて了へしむる割
合なりといひしとぞ斯て同船は翌十三日未
明同地を出發し十五日午前十時馬關に着し
笠十六日未明宇品へ向ひしといふ
佛戰爭の際普軍が迅速に佛境內に進入せし
ことは今日に至るも軍人社界の好談柄と爲り
居るも此の普軍が佛境內に進入せしは兩國
其境を接し且つ鐵道の便に依りたるものな
るも今回日本國の出兵は其境を接せず又固
より鐵道の便もなきに僅僅一週間を出でず
してしかも大軍を迅速に出兵するに至りし
は歐米各國にも未だ曾て例なき事にて實に
日本帝國軍隊の好歷史なり云云と外國人中
殊に軍事に通曉する人人は賞贊したりと云
仁川間に各分隊を配置し其間に哨兵を置き
て他の遮斷を防禦し通信往復を便ならしめ
つゝありといふ
鮮に於て聞捨てならぬ事件出來せりと或方
へ電報ありしよし聞捨てならぬとは何事か
招商局の汽船を擊て其船籍を米國に移し
ラツセル商會の取扱ひとなし外國國旗の下
に保護を受けて恬として恥ざるのみか却て
策の得たるものと自負したるが一昨日上海
發の電報によれば今回又も其故智に傚ひ招
商局汽船の船籍を日耳曼に移すとの說あり
果して此說をして眞ならしめば淸國政府は
開戰第一着の準備を終へたるものといふべ
しさるにても淸國は何れの國に對し斯の卑
怯憐むべき宣戰の準備をなさんとするか
役を去ること殆んど三百年にして我海陸兩
軍の韓地へ入る者數千、文祿の役は名、明に
通ずるの先導を爲さしめんとし今回の事た
る其の國に內亂あり我居留人民を保護せん
とするに在りと稱す出師の主眼異なりと難
ども帝國の威武を海外に宣揚するは卽ち一
なり文祿の役は後陽成天皇の朝にあり元年
二月を以て出師し戰爭延いて七年に涉り慶
長三年十一月を以て軍を撤す時に朝鮮は李
昭王位に在り(李氏朝十五世宣祖昭敬王是
なり)明主神宗皇帝(朱翊鈞の朝萬曆年間)
其將祖承訓、史儒算等を遣はし韓兵を援け
しめ大將李如松は寧夏に屯せり太閤の京師
を發するや途、嚴島祠に謁し其將士に投錢
皆面の吉兆を示して軍氣を振起せしことあ
りしが今回廣島なる第五師團の出兵と宿因
あるが如きは奇と▣ふべし當時本營は肥前
那古郞に在り水陸九軍十五萬人發砲開帆せ
しも風に阻てられて十數日を空うせり今は
馬關に兵站部を設け堅艦巨舶時を移さずし
て韓地に達せり文祿には小西行長加藤淸正
の二將釜山に上陸し行長は東萊を拔き淸正
は慶州を破り道を分ちて進み忠淸道忠州に
會し尋で京城に入るを該し五月四日淸正の
兵漢江を渡り南大門に入りしに前一日行長
の軍は旣に▣川を渡り東大門より入り王は
世子と▣に平安道平壤に▣れ將に北京に奔
らんとす而して今回我海兵が初めて京城に
入りしは本月十日(陰曆五月七日)に在り其
季節の偶然符合せること亦實に奇なり東大
門の外に關羽の祠あり一夜神靈夢に王に告
げて曰く予東門を出でゝ日本軍を▣かんと
今の東廟卽ち是れなりとて我兵旣に京城に
入り浮田秀家之を居守し諸將各各進取を▣
る水兵は九鬼嘉隆、加藤嘉明等之れに將た
り釜山より全羅の海に出で韓の水軍節度使
李舜臣と戰ひ閑山に持す明軍は平安道嘉山
より上陸し▣安に陣す行長之を▣き大に之
を破る而して淸正は轉じて咸鏡道に入り二
王子の遁れて會寧に在るを擒にし其他の諸
將八道を蹂躪せり今や我軍一擧京城に入り
軍艦は列して沿岸の要港に在り雲急に風▣
し旅魂髣髴我軍當年の威武を想ひ髀肉の▣
に堪へざるものあるべし壯哉快哉
風說同地に起れり蓋し訛傳ならん
仁川の社友より大要左の如き通信を得たり
全州及び其他に於ける官軍と東軍の戰況に
就ては日夜▣の齒を曳くが如きの注進或ひ
は賊軍敗れたりと云ひ或ひは官軍退きた
りと呼び彼此執れが信なるや更に知る由あ
らざれども其十中の七八は官軍の勝報に屬
す然れども其實際を探問すれば大槪咸な虛
報にして只只兩軍に在る者が勢威を示すの
手段に過ぎざるなり故に其實全州地方は昨
今案外無事則ち兩軍對峙して一砲を發せず
一箭を放さず所謂睨み合ひの有樣なるを以
て所在人民も亦た大に戰場に▣れ兩陣の間
に出入して種種の飮食物▣を商ひ莫大に利
益を占むる者さへあるに至れり然るに此に
最と顰蹙に堪ざるものは彼れ官兵の行狀
なり卽ち招討軍にまれ沁營兵にまれ最初出
張せし際は孰れも戰慄し今にも敵の爲めに
姓命を奪はるゝ如く思ひ日夜寢食に安んぜ
ざるものゝ如くなりしが昨今は其怖氣も去
りて持前の地金を表はし豪農富商の家を襲
ひて金錢を掠め食物を貪るのみならず恣に
人の妻女を捉へて之を恥かしむる等實に言
語同斷の振舞なり故に年若き妻、貌善き女
を持てる者は潛に之を他に移して固く▣▣
するの風を生ずるに至れり之に引▣へ東學
黨の行狀卽ち其軍律の嚴正なる實に感心
の外なし若し一兵にても良民の財産を貪り
婦女を姦する等の事あれば忽ち捕獲し來り
て衆兵の面前に引据ゑ罪を數へて立所に身
首を異にし以て全軍を懲戒すると▣ふ故を
以て隊伍常に整整首領の命に從ふ恰も肱の
指を使ふに似たりと是れ或は聊が過稱に失
するや知るべからずと雖も全體の形勢が旣
に斯の如くなるを以て地方民の氣受け月▣
雲泥一は蛇蝎の如くに忌み一は師傅の如く
に愛し其懸隔▣に遙遠なり又官軍は嚴命を
下して軍糧を徵せんとするも敢て應ずる者
無し然るに東軍の方に於ては徵せずして之
を得求めずして之を充たすの狀あるに由り
倘し今後形勢一變し東軍遂に意を決して王
師に抗敵するに至らば今日怨を呑みて控へ
つゝある農民等は忽ち鋤鍬を提げて東軍に
▣援するに至るや知るべからず抑も現今の
叛徒は東學黨と云ふ一部の不平黨に過ぎざ
れども官軍若し今日の亂行を戒め民心を▣
向せしむるの方策を講せざれば全國擧て遂
に怨敵となり卽ち或者の讖言の如く李朝五
百年の一大變革を實演するの不幸を見るに
至るやも知るべからず蓋し韓廷玆に見る處
あり頻に名士を派して東徒を慰諭し解散の
事に勉むと云ふ今後の成行果して如何尙見
聞次第報道する所あるべし(六月十三日附)
めにして他因あるにあらず▣覆一晝夜にし
て成りしとの電報一昨日或方へ電報あり
▣し亂民皆な撫綏に就きたりといふ
種種の原因あるべけれども朝鮮弊政の改革
は又一つの目的なるが如し然るに此弊政に
して尤も地方人民の苦痛を感ずる一事を聞
くに彼國人が財を以て官を買ふは敢て珍し
とするに足らず卽ち金一千圓あれば按撫使
となり五百圓を有すれば縣宰となるが如き
は殆ど普通の習慣となり或は商人より兵使
に任ぜられ旅店の主人にして郡宰となれる
者亦甚だ多し而して是等は皆贈賄の結果な
れば十中八九は官務の如何を辨へざるの徒
あり夫は扨置き人民の最苦と云へるは縣宰
等が地方人民に生犢を配與すること之れなり
元來同國人民生活の程度は頗る低く從つ
て是等生犢を育成するには大に一家の經濟
に影響を及ばし日日の食物に不足を訴ふる
にも拘はらず地方官の命なればとて唯唯諾
諾として其命に從ひ辛じて三四年間之を生
育し一匹の大牛となせば彼の縣宰等は初め
犢を與へたるを▣とし人民に命じ酬恩金を
徵收し若し之に應ぜざる時は官命抗拒を以
て罰するか又は成牛を引上ぐる故人民の不
經濟と苦痛とは云ふ迄もなく或は之が爲め
一家離散する者さへあるに至る而して今回
の騷亂に於ける生牛徵發の如きも其實軍用
に供するか將又前の如き事情より徵發の名
を借りて民財を掠奪するにはあらざるかと
同國の事情に悉しき或邦人は云へり
鮮に出兵のことに付李鴻章が頗る狼狽したる
ことは已に前號に記せしが今其由來を聞くに
明治十五年の頃淸國政府の樞要なる人人は
琉球事件に付吾邦に對し戰端を開くべしと
の▣に一決したる節李氏は我邦を恐れ今日
戰を開くの利益にあらざることを縷陳し終
に其議を止めたるに明治十七年の朝鮮事件
以來吾國の外交政策は常に保守主義に傾き
たるより李氏は稍や輕侮の念を起し加るに
近時吾國に於ける政府と議會と衝突の結果
議會は海軍の不整理其用に適せずとまで絶
叫したれば今日の狀態にては一朝外國に事
あるも到底手足を伸ばす能はざるべしと輕
侮し居たるに今回の事件豫想と違ひ迅速に
大數の兵を繰出したるより▣は大に狼狽し
たるものなりといふ
魁と共に殺戮されたりと▣すれど其筋へは
未だ何等の報なし訛傳として誤らざるべし
載せし張本人福田忠恕は免職となり且つ三
浦府知事より收賄の告發を▣けたりと