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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
  • 기사명
    明治27年 6月 21日
  • 이미지
    prd_0133_068 ~ prd_0133_075 (456 ~ 463쪽) 이미지
  • 날짜
    음력 1894년 05월 18일
일러두기

6月21日
●韓廷の驚駭、袁氏の狼狽

大鳥公使が海兵を率ひて京城に入るとの報
韓廷に聞ふるや其の驚駭一方ならず卽時廟
議を開きたるが斯く日兵が速かに渡韓せし
は畢竟韓廷より淸國政府へ援兵を請ひたる
爲めなるべし左れば日兵の撤去を請求する
には第一援兵請求は韓廷の決議にあらざる
を表明するため高等官一名を犧性に供し相
當の罰を行ひ第二袁世凱に嘆願して未着の
淸兵を中途より撤去せしむるの外なしとの
策に決し犧牲の役人は閔泳駿▣▣引受る事
となり援兵中止を袁氏に計りしに世凱は之
に答へて淸兵は已に裝を整へ途にあれば今
故なく撤去せること能はざれど日淸兩兵一所
に駐在する時は衝突の憂あれば余自ら仁川
に赴き大鳥公使に面會して日兵の入京を拒
むべしといひ自ら仁川に下らんとせしに其
日は强雨甚だしければよも此强雨に日兵の
入京はなかるべしと一日遷延せしが其間に
日兵は機を誤らず入京したれば世凱の策ガ
ラリと▣▣し爲めに大に周章狼狽したりと
聞く扨又日兵は始めより兵器糧食其外凡て
正式に艦內に積込たるを以て悉皆之を陸揚
し兵士の進行するを得▣▣でには三四時間
を▣すべき豫定なりしに實際仁川着港の節
は案外にも前後一時間にて悉皆陸揚し數百
の海兵規律正しく海岸に整列し聲高に三度
祝意を表したれば在留の各外國人は日兵の 迅速なるに驚嘆し皆皆海岸に集り日兵を取
卷き珍らしげに見物したる由夫より大鳥公
使を始め皆皆時を移さず强雨を冒し京城に
入り帝國公使館の丘上に假陣を搆て此日よ
り喇叭の音▣ましく京城の滿街に響き日章
の國旗日頃に倍して色鮮かに見えしといふ

●和歌浦丸着仁の景況

和歌浦丸は一の戶少佐の率ゆる若干の兵を
▣せて去九日の午前八時廣島縣宇品を發し
直行して同十二日午後二時仁川港の沖一里
許の海に投錨したり斯と見るや豫て待設け
たる我水兵忽ちに漕付て彼是と周旋し艀船
には軍艦付の端艇三十餘艘之に會社船の分
又び小汽船を加へ兵士の上陸に着手し三時
間にて奇麗に上陸せしめ六時間にて荷物を
卸し畢りしが兵士の上陸は支那軍艦(四艘)
及び米、佛、英(各一艘)軍艦の鼻先にてなし
たれば我海軍の軍人中心竊かに我面目を施
したるを喜ぶの樣ありしと實は始め宇品に
て棧橋より本船まで五丁の處を三時間に悉
皆兵士を乘船せしめたる手際には和歌浦丸
の船員も其迅速なりしに驚きしに仁川にて
は一里許の距離を三時間內にやつて除たれ
ば一層其迅速に驚嘆したるが其驚きは唯り
和歌浦丸船員のみか各國軍艦の將士も爭ふ
て其上陸の實際を目擊し是亦其意外に速か
なりしを賞贊し或る將校の如きは淸國の牙
山上陸に比すれば淸兵の五日間を要したる
分を日兵は僅かに八時間にて了へしむる割
合なりといひしとぞ斯て同船は翌十三日未
明同地を出發し十五日午前十時馬關に着し
笠十六日未明宇品へ向ひしといふ

●外人大に我軍隊の敏速に驚く 往年普
佛戰爭の際普軍が迅速に佛境內に進入せし ことは今日に至るも軍人社界の好談柄と爲り
居るも此の普軍が佛境內に進入せしは兩國
其境を接し且つ鐵道の便に依りたるものな
るも今回日本國の出兵は其境を接せず又固
より鐵道の便もなきに僅僅一週間を出でず
してしかも大軍を迅速に出兵するに至りし
は歐米各國にも未だ曾て例なき事にて實に
日本帝國軍隊の好歷史なり云云と外國人中
殊に軍事に通曉する人人は賞贊したりと云

●京城仁川間の連絡 我混成旅團は京城
仁川間に各分隊を配置し其間に哨兵を置き
て他の遮斷を防禦し通信往復を便ならしめ
つゝありといふ

●聞捨てならぬ朝鮮の變事 三四日前朝
鮮に於て聞捨てならぬ事件出來せりと或方
へ電報ありしよし聞捨てならぬとは何事か

●淸國開戰の準備か

去る十七年淸佛戰爭の前に當り淸國政府は
招商局の汽船を擊て其船籍を米國に移し
ラツセル商會の取扱ひとなし外國國旗の下
に保護を受けて恬として恥ざるのみか却て
策の得たるものと自負したるが一昨日上海
發の電報によれば今回又も其故智に傚ひ招
商局汽船の船籍を日耳曼に移すとの說あり
果して此說をして眞ならしめば淸國政府は
開戰第一着の準備を終へたるものといふべ
しさるにても淸國は何れの國に對し斯の卑
怯憐むべき宣戰の準備をなさんとするか

●文祿の役と我兵の入韓 豐太閤文祿の
役を去ること殆んど三百年にして我海陸兩
軍の韓地へ入る者數千、文祿の役は名、明に
通ずるの先導を爲さしめんとし今回の事た
る其の國に內亂あり我居留人民を保護せん
とするに在りと稱す出師の主眼異なりと難 ども帝國の威武を海外に宣揚するは卽ち一
なり文祿の役は後陽成天皇の朝にあり元年
二月を以て出師し戰爭延いて七年に涉り慶
長三年十一月を以て軍を撤す時に朝鮮は李
昭王位に在り(李氏朝十五世宣祖昭敬王是
なり)明主神宗皇帝(朱翊鈞の朝萬曆年間)
其將祖承訓、史儒算等を遣はし韓兵を援け
しめ大將李如松は寧夏に屯せり太閤の京師
を發するや途、嚴島祠に謁し其將士に投錢
皆面の吉兆を示して軍氣を振起せしことあ
りしが今回廣島なる第五師團の出兵と宿因
あるが如きは奇と▣ふべし當時本營は肥前
那古郞に在り水陸九軍十五萬人發砲開帆せ
しも風に阻てられて十數日を空うせり今は
馬關に兵站部を設け堅艦巨舶時を移さずし
て韓地に達せり文祿には小西行長加藤淸正
の二將釜山に上陸し行長は東萊を拔き淸正
は慶州を破り道を分ちて進み忠淸道忠州に
會し尋で京城に入るを該し五月四日淸正の
兵漢江を渡り南大門に入りしに前一日行長
の軍は旣に▣川を渡り東大門より入り王は
世子と▣に平安道平壤に▣れ將に北京に奔
らんとす而して今回我海兵が初めて京城に
入りしは本月十日(陰曆五月七日)に在り其
季節の偶然符合せること亦實に奇なり東大
門の外に關羽の祠あり一夜神靈夢に王に告
げて曰く予東門を出でゝ日本軍を▣かんと
今の東廟卽ち是れなりとて我兵旣に京城に
入り浮田秀家之を居守し諸將各各進取を▣
る水兵は九鬼嘉隆、加藤嘉明等之れに將た
り釜山より全羅の海に出で韓の水軍節度使
李舜臣と戰ひ閑山に持す明軍は平安道嘉山
より上陸し▣安に陣す行長之を▣き大に之
を破る而して淸正は轉じて咸鏡道に入り二 王子の遁れて會寧に在るを擒にし其他の諸
將八道を蹂躪せり今や我軍一擧京城に入り
軍艦は列して沿岸の要港に在り雲急に風▣
し旅魂髣髴我軍當年の威武を想ひ髀肉の▣
に堪へざるものあるべし壯哉快哉

●長崎に淸國軍艦七隻來らんとす との
風說同地に起れり蓋し訛傳ならん

●全州に於ける官兵と東兵

忠淸監營に在る石井某よりの書簡なりとて
仁川の社友より大要左の如き通信を得たり
全州及び其他に於ける官軍と東軍の戰況に
就ては日夜▣の齒を曳くが如きの注進或ひ
は賊軍敗れたりと云ひ或ひは官軍退きた
りと呼び彼此執れが信なるや更に知る由あ
らざれども其十中の七八は官軍の勝報に屬
す然れども其實際を探問すれば大槪咸な虛
報にして只只兩軍に在る者が勢威を示すの
手段に過ぎざるなり故に其實全州地方は昨
今案外無事則ち兩軍對峙して一砲を發せず
一箭を放さず所謂睨み合ひの有樣なるを以
て所在人民も亦た大に戰場に▣れ兩陣の間
に出入して種種の飮食物▣を商ひ莫大に利
益を占むる者さへあるに至れり然るに此に
最と顰蹙に堪ざるものは彼れ官兵の行狀
なり卽ち招討軍にまれ沁營兵にまれ最初出
張せし際は孰れも戰慄し今にも敵の爲めに
姓命を奪はるゝ如く思ひ日夜寢食に安んぜ
ざるものゝ如くなりしが昨今は其怖氣も去
りて持前の地金を表はし豪農富商の家を襲
ひて金錢を掠め食物を貪るのみならず恣に
人の妻女を捉へて之を恥かしむる等實に言
語同斷の振舞なり故に年若き妻、貌善き女
を持てる者は潛に之を他に移して固く▣▣
するの風を生ずるに至れり之に引▣へ東學
黨の行狀卽ち其軍律の嚴正なる實に感心 の外なし若し一兵にても良民の財産を貪り
婦女を姦する等の事あれば忽ち捕獲し來り
て衆兵の面前に引据ゑ罪を數へて立所に身
首を異にし以て全軍を懲戒すると▣ふ故を
以て隊伍常に整整首領の命に從ふ恰も肱の
指を使ふに似たりと是れ或は聊が過稱に失
するや知るべからずと雖も全體の形勢が旣
に斯の如くなるを以て地方民の氣受け月▣
雲泥一は蛇蝎の如くに忌み一は師傅の如く
に愛し其懸隔▣に遙遠なり又官軍は嚴命を
下して軍糧を徵せんとするも敢て應ずる者
無し然るに東軍の方に於ては徵せずして之
を得求めずして之を充たすの狀あるに由り
倘し今後形勢一變し東軍遂に意を決して王
師に抗敵するに至らば今日怨を呑みて控へ
つゝある農民等は忽ち鋤鍬を提げて東軍に
▣援するに至るや知るべからず抑も現今の
叛徒は東學黨と云ふ一部の不平黨に過ぎざ
れども官軍若し今日の亂行を戒め民心を▣
向せしむるの方策を講せざれば全國擧て遂
に怨敵となり卽ち或者の讖言の如く李朝五
百年の一大變革を實演するの不幸を見るに
至るやも知るべからず蓋し韓廷玆に見る處
あり頻に名士を派して東徒を慰諭し解散の
事に勉むと云ふ今後の成行果して如何尙見
聞次第報道する所あるべし(六月十三日附)

●義州線不通の原因 は全く大雷雨のた
めにして他因あるにあらず▣覆一晝夜にし
て成りしとの電報一昨日或方へ電報あり

●淸國吉林の變亂 ば該地方の租稅を▣
▣し亂民皆な撫綏に就きたりといふ

●朝鮮弊政の一班 東學黨の蜂起は他に
種種の原因あるべけれども朝鮮弊政の改革
は又一つの目的なるが如し然るに此弊政に して尤も地方人民の苦痛を感ずる一事を聞
くに彼國人が財を以て官を買ふは敢て珍し
とするに足らず卽ち金一千圓あれば按撫使
となり五百圓を有すれば縣宰となるが如き
は殆ど普通の習慣となり或は商人より兵使
に任ぜられ旅店の主人にして郡宰となれる
者亦甚だ多し而して是等は皆贈賄の結果な
れば十中八九は官務の如何を辨へざるの徒
あり夫は扨置き人民の最苦と云へるは縣宰
等が地方人民に生犢を配與すること之れなり
元來同國人民生活の程度は頗る低く從つ
て是等生犢を育成するには大に一家の經濟
に影響を及ばし日日の食物に不足を訴ふる
にも拘はらず地方官の命なればとて唯唯諾
諾として其命に從ひ辛じて三四年間之を生
育し一匹の大牛となせば彼の縣宰等は初め
犢を與へたるを▣とし人民に命じ酬恩金を
徵收し若し之に應ぜざる時は官命抗拒を以
て罰するか又は成牛を引上ぐる故人民の不
經濟と苦痛とは云ふ迄もなく或は之が爲め
一家離散する者さへあるに至る而して今回
の騷亂に於ける生牛徵發の如きも其實軍用
に供するか將又前の如き事情より徵發の名
を借りて民財を掠奪するにはあらざるかと
同國の事情に悉しき或邦人は云へり

●李鴻章の狼狽に就て 今回吾邦より朝
鮮に出兵のことに付李鴻章が頗る狼狽したる
ことは已に前號に記せしが今其由來を聞くに
明治十五年の頃淸國政府の樞要なる人人は
琉球事件に付吾邦に對し戰端を開くべしと
の▣に一決したる節李氏は我邦を恐れ今日
戰を開くの利益にあらざることを縷陳し終
に其議を止めたるに明治十七年の朝鮮事件
以來吾國の外交政策は常に保守主義に傾き たるより李氏は稍や輕侮の念を起し加るに
近時吾國に於ける政府と議會と衝突の結果
議會は海軍の不整理其用に適せずとまで絶
叫したれば今日の狀態にては一朝外國に事
あるも到底手足を伸ばす能はざるべしと輕
侮し居たるに今回の事件豫想と違ひ迅速に
大數の兵を繰出したるより▣は大に狼狽し
たるものなりといふ

●訛傳 海軍少佐新納時亮氏は東軍の首
魁と共に殺戮されたりと▣すれど其筋へは
未だ何等の報なし訛傳として誤らざるべし

●府▣屬官收賄談 と題し前號までに續
載せし張本人福田忠恕は免職となり且つ三
浦府知事より收賄の告發を▣けたりと

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