6月24日
●淸國の出兵に就て
報じたる電音區區にして一ならず曰く淸國
は更に天津より五千の兵を朝鮮國大同江に
向ひ出發せしむべし、已に北塘 (天津の港
にて白河を隔てゝ太沽に對す より四千次
で千五百を出せり是等は敢て京城に向はず
平壤に據て本營を定むべし曰く五千の兵は
虛なり實は三衛兵に過ぎず此等は悉く旅
順港附近の地に屯りて未だ發せず曰く李伯
は五千人は尙ほ少なしとて一層其員數を增
加し十七衛(八千五百人)の出兵を命じたり
とあり何れが眞なるかは知らざれども東亞
の風雲益益急迫せしは疑ふべからず尙後報
を得て確むる所あるべし
右書終るや左の報に接す(芝罘發電)
淸兵六千已に朝鮮に向け出發したり
●淸國開戰の準備
淸國政府は開戰の準備として招商局の船藉
を獨逸に移さ▣とし否已に之を決行し且日
韓間の電通を禁止し公然之を▣▣▣に通知
せしのみならず已に戒嚴令さへ發したりと
●北淸日報の記事 今回日本が朝鮮にて
支那と拮抗する曉には佛露は日本に同盟し
支那は勢ひ英國に倚るべしと論述せり
●淸國政府、朝鮮の圖を求む 淸國政府
は朝鮮の地圖を求るため特に▣太令を渡韓
せしめしが本月中には手に入れ歸國すべし
●電信不通後は如何 淸國政府が已に日
本人の電報を禁止したる以上は朝鮮京城仁
川等より本邦に發する電信は釜山迄來らざ
る可からず而して仁川(京城仁川間は二十
餘哩)釜山間海路の距離は四百三十一哩內
外にして汽船の航海すること四十七八時間を
費す之れに反して仁川より淸國旅順口間は
僅に十時間內外にて達するのみならず京城
より天津旅順口等の間には依然電信の便あ
れば韓淸兩國の消息は瞬間に通ずるを得べ
し左れば彼我の便否は今更辨を要せざる次
第なれども我日本帝國の軍隊は今日あるを
豫期し旣に之れに處するの備をなしあれば
假令電信不通と爲りたればとて夫れが爲め
毫も軍隊の進退に差支なしと
●大院君の動靜 大院君は淸國に援兵を
乞ひたる事を攻擊したる一の平賊策に上つ
り且つ本月十一日國王の召により入闕して
國王に謁し數時間密談したりといふ
●何物ぞ 一昨夕馬數頭にて曳きたる重
き箱を永代橋際の共同物揚場へ卸し五大力
船四隻へ積み何處へか漕ぎ去れり此箱は砲
兵第一方面より持ち來れりと何物にや
●全州恢復の事 官兵が全州を恢復した
るは東軍が淸兵來援の報を聞き其銳を避け
んため退て自ら守るの覺悟より自ら引上げ
て金堤に屯せしを以て官兵其跡へ入込みた
るのみにて實際戰爭ありしに非ずされば雙
方一人の死傷もなかりしといふ然るに招討
使は激戰の末賊魁を斃したるやう韓廷に報
ぜしかば韓廷は直ちに其首級を送るべき旨
を命じたるに左の返報をなしたりといふ
大砲にて打殺したれば全身盡く碎けて
首級な
●朝鮮釜山通信(十八日發)
釜山の太平 釜山に上陸して東徒の動靜を
探問するに朝鮮人は勿論日本居留民と雖も
毫も其消息を知る者なく至て太平無事なり
其理由は慶尙道に未だ東徒の起らざると京
城釜山間の電線切斷の爲め其戰況の詳か
ならざるとに依る只物價は一般に一割方高
くして向後益益騰貴の見込なり仁川も京城
釜山と同樣旅館及び間數多き商家は皆兵士
の旅館に充てたるを以て普通の旅人は皆平
日に二倍の費額を拂て民家に投宿せり
釜山近傍の朝鮮人 釜山近傍の朝鮮人は元
より無學不文の民にして自國內亂の形勢を
察して國運の衰頹を挽回せん抔の考按を有
する者は一人もなけれ共多數は何んとなく
東學黨贔負にして當地近傍に推寄せ來るを
俟つの意嚮あり
朝鮮人の恐怖 日本郵船會社の汽船が釜山
に到看する每に是迄同地の朝鮮人は小舟に
棹して直ちに汽船に來り然らざるも渡頭に
群集し長煙管をくはへながら珍らしそうに
上陸の日本人を見物することなるに昨日は肥
後丸が兵士を搭載し到着するの風說釜山に
在りしを以て近▣の朝鮮人は皆恐怖の念を
起し汽船に來る者は一人もなく只波止場に
兩三名の韓人佇立し銃槍を肩にして海岸に
整列せる日本兵を指して何事か頻りに私語
せるを見たるのみ囚に記す釜山にて勞働に
從事する朝鮮人の團體は宛然たる日本の立
棒に異ならず
淸兵の亂暴 東學黨鎭靜の爲め牙山より全
羅道に進人したる淸兵は沿道の民家に亂入
して米粟金銀を掠奪し或は婦女そ姦し意の
如くならざるものは兵器を以て亂打したる
揚句に虐殺し▣亂暴なる實に言語同斷なり
朝鮮人拘縛せらる 東學黨の摸樣を邦人に
通知したる朝鮮人四五名は過般朝鮮地方官
の爲めに拘縛京城に送られ今尙獄中に在り
我兵士を歡迎す 陸軍步兵大尉原野兼氏は
廣島兵士▣▣名を卒ひて直ちに上陸居留民
數千名雨を冒して波戶場に蝟集し上陸の兵
士に歡迎の意を表したり
釜山の日本兵 釜山に上陸したる▣▣▣の
日本兵は當分本營を當港に設けて居留民を
▣護し內地には進入せざることに決せりと云
ふ因に記す日本兵士の釜山に上陸したるは
明治維新以來今回を以て嚆矢とす
我兵に對する朝鮮人の感情 釜山近傍の▣(朝)
鮮人は日本兵の上陸したるに因り大に人意
を强ふし東徒若し來らば皆日本居留地に逃
込む覺悟なりと
釜山に淸兵の隻影なし ▣(東)學黨の根據は今
や全羅道全州忠淸道泰安の兩地に在り而し
て牙山に上陸したる淸兵は容易に內地に進
入せず東軍の形勢を窺ふて后徐徐兵を進め
て昨今漸く戰地に達し旣に二百名の東軍を
殺せりとの風說あれ共未だ釜山には一人の
淸兵も上陸したることなしと云ふ
●東軍大將の事 東軍の大將は一人にあ
ら▣八九人もありて其中二名は確かに日本
男兒あり已に同軍の或處の殘跡より日本の
百圓紙幣五六枚出でたるを以て證とすべし
と傳ふるものあり時節柄容易に信じ難し
●露國の動靜 露人の朝鮮北部咸鏡道、
江原道邊に入込みしもの昨今益益其數を加
へ今は案外の多人數に及べりといふ
●淸兵の練習を拒む 京城に入りたる淸
兵は此程和城(京城四門を眼下に見下し得
る高處)にて一大演習を試みんとて其旨韓
廷に申込みたるに韓廷は淸兵和城にて演習
を行ひたる後三日にして彼の十七年の變亂
ありしことなれば不吉なりとて拒絶したる由
●警官の部署 警視廳より京城に入りた
る我巡査廿名は內一名龍山に一名は南大門
(崇禮門)に派遣し殘り十八名の內十名づゝ
當番として公使館を警衛し非番五名は公使
外出の護衛に充る事になりしといふ
●馬關の集積場 兵站兼碇泊場司令部ば
外濱町引接寺內、野戰首砲廠は阿彌陀寺町
極樂寺內、集箱倉庫、貨物廠は同町茶勘に
て何れも河岸に近く殊に倉庫の如きは大藏
省米庫、三井物産會社倉席等手廣き建物を
借入りたれば毫も不便を感ぜずと
●赤十字社の多忙 同社は昨今朝鮮出
張の準備として非常の繁忙にて午後九時頃
迄も事務を執り居る由
●宗像政氏 は熊本縣の人なり目下朝鮮
京城にあり頻りに內亂の實情を視察中
●玄洋社員の渡韓 東軍人中玄洋社員あ
りとの噂は已に記せしが同社員三名は近近
戰況視察として渡韓するやに云へり