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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
  • 기사명
    明治27年 6月 26日
  • 이미지
    prd_0133_080 ~ prd_0133_090 (468 ~ 478쪽) 이미지
  • 날짜
    음력 1894년 05월 23일
일러두기

6月26日
朝鮮の事局

朝鮮の問題は局面全く一變したり、其一變
したる者は世の新聞社が唱する如く平和變
じて爭ひと爲り危機一髮將に戰ひの端を開
かんとするが爲めには非ず、唯だ東學黨に
關する問題が淸國に關する問題となりたる
が爲めのみ

我國が兵を出したるは東學黨の勢ひ猖獗に
して京城に入らんとするの恐れあり公使館
領事館及び居留民の安危氣遣はるゝが爲め
に之を保護するの目的を以てせしなり、乃
ち東學黨に備ふると云ふに過ぎざりしなり
今や東學黨は鎭定したり、鎭定と云ふ迄に
は至らざるも、兎に角勢ひの非なる者ある
を見て自ら全州を明渡して退きたり、朝鮮
の領內に今は東學黨の亂なしと云ふ可し、
旣に東學黨の亂無しとせば公使館領事館及
居留人民の安危は平日と異なる所なし、別
に兵を派して保護するの必要も止みたり、
然らば卽ち我が出兵の目的は旣に達したる
者、否出兵の必要旣に過去りたる者、我國
兵は唯だ東學黨の鎭定と公使館領事館及び
在留人民の安全なるを▣屆けて本國へ引上
ぐれば可なり

朝鮮政府が大鳥公使に對し日本兵の撤去を
乞ひたる者必ずしも無理に非ず、大鳥公使
たる者、此時を以て日報子の所謂る平和と
光榮を全くし得たる者と爲し其乞に從ひて
可なり、是れ▣易きの道理なり、然るに公
使の爲す所ろ玆に出でず、斷然として峻拒
したる所以の者、蓋し其▣の單に朝鮮政府
の意より出ずして淸國公使袁世凱の意より 出で、猶ほ其奧には淸國政府の政略も籠れ
る事を洞看したるに由る耶、將た淸▣の兵
猶ほ撤去せざるに我れ獨り我が兵を撤去す
るの理なきを見たるが爲ならん、然らば則
ち朝鮮內亂の爲めに出したる我兵は今や撤
去問題の爲めに駐むる事と爲りたる者と云
ふ可し、是れ吾人の云ふ局面一變なり

袁世凱は曰く撤去せよ大鳥公使は曰く撤去
し難し、爭ふ所ろは撤去不撤去に在り東學
黨に在らず朝鮮內亂に在らず居留民保護に
在らず、對手者は淸國に在り朝鮮に在らず
爾後淸國が更に幾多の兵を出すと云ふ者亦
朝鮮內亂の爲めに非ずして、兵を以て我が
兵を撤去せしめんとするに在り我國の論者
が更に兵士の增發を私▣する者も亦兵を以
て此の撤去問題に當ら▣とするの意に外な
らず、若し之を極點にまで推進ましめば、
淸國は兵力を以て我兵を追拂ふ事に着手し
我國も亦兵力を以て其の國兵の駐在を强行
する迄にも至らん、事玆に至れば卽ち日淸
兩國の戰爭なり

初めは居留者保護の爲めに兵を出し、保護
の必要盡くるや、其兵を撤去せざるが爲め
に事端を開く、世に平地に風波を起すと評
す可き者あらば、斯の如きは卽ち其一例な
らん、居留者保護の爲めに兵を出すは可な
り、兵を出したる上に及びて其の保護の目
的を達するが爲めに戰ひを開く亦止むを得
ず、旣に出兵と云へば卽ち戰ひを目的とす
可き者なればなり、(此義▣▣人旣に之を論
ぜ▣)然れども保護の目的に出たるの兵、
▣目的旣に經過したるの後に及び、猶ほ駐
在せんとするが爲めに事端を起す如きは出
兵の初一念に▣ふ者と云ふ可からざるに似
たり

唯だ彼の地の實況に於て東學黨なる者何時 再來を計る可からず、居留民亦何時危急を
訴ふるやを知る可からざる樣子あらば單に
東學黨の一たび退きたるを見て居留者保護
の目的經過したりとは云ふ可からず、大鳥
公使が撤去を峻拒する或は之れに因る耶、
抑も亦淸國が兵を以て朝鮮の內事に干涉し
▣獨立を妨ぐるの▣れあるを以て、朝鮮獨
立の前途を無事ならしむる目的の爲め猶ほ
駐兵の必▣あるに因る耶、若し朝鮮の獨立
を無事ならしむるが爲めとせば、居留者保
護の目的一變して朝鮮保護と▣り駐兵の口
實に▣て穩當を欠ぐの恐れ無きに非ざるも
亦止むを得ざるなり

居留者保護の爲めに鬪ふ素より可、朝鮮保
護の▣に戰ふ亦敢て不可なしと雖も、眞に
朝鮮獨立▣前途を保護するは一朝にして足
るの問題に非ず、百年一定の方針ありて一
意徹底するを要す、此度の出兵は果して朝
鮮の獨立に關し百年一定の方針あり其方針
の爲めに此後の駐兵を必要とする者なる乎
若し一定の方針無くんば獨立保護の名、其
實と共に通ぜざるなり、朝鮮の爲めに非ず
居留者の爲めに非ずして唯だ目的經過後に
兵を駐め之が爲め事を開き、內事多端の時
に於て外に亦事を起すが如くんば當事者の
責甚だ重きを知らざる可からず、吾人は戰
ひを恐れず唯だ無目的の戰ひを厭ふ今日の
時勢實に確乎なる目的の爲めに戰ふ可く、
無目的の爲めに戰ふ可きに非ざればなり、
國兵撤去を峻拒する當事者の意は吾人が切
に聞かん事を願ふ所なり

●朝鮮戰記 ()

●大鳥公使申込を斥く 大鳥公使が兵を
率ゐて入京するの報一たび京城に達するや
朝鮮政府は何思ひけん急速外務參議閔商鎬 と同衙門主事李鶴圭の兩人をして兵の入京
を止められたき旨を申込ましむる爲め急速
下仁せしめたれども兩人が仁川に着したる
時は已に公使一行が發程後にて行き違ひた
れば如何とも詮方なく止みたるが外務協辨
李容植も亦た政府の命を奉じて出發し途中
にて公使の一行に出▣ひ右と同一の意味を
申入れしも公使は斷然として之を斥け確然
として少しも取り合ざりしと云ふ

●外兵借來に付き責任者なし 淸國の出
軍に繼いで我が兵は公使館を護衛せん爲め
に來り露佛公使も亦頗る運動する所あるよ
り朝鮮政府は直ちに是れ外交上の紛擾な
りと速斷し憂懼驚駭一方ならずそもそも外
兵の借來を唱へ之れが斡旋を爲したるは何
人なるやなんど今日に及んで其責任者の所
在を尋ぬるに至れり昨今右に四する大內會
議は日夜の別なく開かる今其の一▣を洩れ
聞くに諸大臣は會稟して曰く當初外兵を請
ふの事政府より電報したるに非ず其內軍艦
突如來到せしに付き取り敢へず接迎を差送
りたるのみ然るに今各國の兵艦接踵して來
り忽ち海面の動搖を致せり臣等由る所を知
らず只恐惶の外なし 上曰く卿等予を貴
むることなく去りて惠堂に問へ諸大臣伏し
て奏すらく此事畢竟惠堂の輕擧より生ぜり
實に國家の大患たり然れども旣張の擧今に
及んで如何ともすべからず現今の時勢を考
ふれば只淸兵をして上陸せしめざるに在り
左すれば他外の兵も亦必ず退還せん 上曰
く淸兵を請ふ畢竟其上陸を欲するに在り
之を爲す如何諸大臣奉答して曰く惠堂袁氏
と交契あり此事亦惠堂に全任せば必ず穩辨
の道あらん今番の事惠堂周旋の外更に他策
なし 上乃ち惠堂を召して曰はく今番の事
汝は國の爲めにするの意なりと雖も今ま各 國の兵艦雪集し予の憂悶は兩湖の騷亂に勝
れり汝主として外兵を招く者淸兵をして上
陸を爲さしめざるの事汝に非ずんば如何と
もすべきなし結ぶ者之を解くの謂ひなれば
汝其れ之を盡せと惠堂慙懼流汗滿背退出し
てより卽ち下項記する如きの苦計を施した
りと云へり

●朝鮮政府の苦計 朝鮮政府旣に援を淸國
に求めて淸兵將に到らんとするの際日艦亦
兵を載せて旣に發せりと云ひ露佛は交交異
議を淸の出兵に入れて迫る所ありと云ひ元
と內亂を治むる爲めにしたる外兵借來の一
事は端なくも外交上の紛雜を來さんとする
の恐れを引き起したるより政府は太いに之
を憂慮し日夜評議を凝らすと雖も一も決す
る所あらざりしが畢竟紛端は淸兵の下來よ
り生ぜしものなれば先づ暫く淸兵の上陸を
留むるより外に術なしと思ひながらも一旦
依賴したるものを何の理由なくして留むる
こと能はず殆ど途方に暮れたる折柄韓曆五
月一日招討使より達したる電報に全州に於
て賊と接戰斬獲少なからずと報じ來りたれ
ば是れ幸なりとして閔惠堂は直ちに袁公使
に面して大勝の趣を告げ此の次第なれば
貴兵上陸の事は暫く見合はせられたしと賴
みたり然るに袁氏は之れに答へて果して然
らば來る初六日を期とし夫れ迄は上陸を止
むべし若し六日迄に完營を復することを得
ざれば斷然上陸せしむべしと云ふに依り惠
堂は入闕して具旨を告げ是非とも六日迄に
復城せざればならずとて三日の夜を以て竊
に二百の兵丁を增發し尙ほ招討軍の勢ひを
助けしめ一面は勝報連りに至る復城期日の
內に在りと普く閭巷の間に吹聽せしめ以て
暗に他の外兵の渡來を防がんことに勉めた
るは卽ち今より一週日間に於ける朝鮮政府 の最も苦心したるの實狀なりし

●官兵の大勝は無慘の誤殺

招討使より官軍大勝なりと報じたるは亂徒
を斬りたるには非ずして無辜の生民を誤殺
したるの事實たること今日に至りて世間に
知れ渡れり今ま其次第を聞くに東徒は四門
を閉ぢて完營に立て籠り招討軍は營の南門
に面して陣し沁營兵は營の西門に對陣して
洩れなく圍みたれば▣(東)徒の擊て出べき隙な
きのみか營內にある無數の居民は遁れ出づ
べき道なきより已むを得ず東徒とゝもに內
に在りとは云へど一日も安き心はなきより
中には竊に城壁を乘越えて遁れんとするも
のあれば官兵は何の容赦もなく直ちに狙擊
するより爲めに討たれたるものも少なから
ざりしと云ふ右につき居民は明暮れ號泣し
て止まざるより東徒は彼等に告げて曰く遁
れんと欲する者は殘らず一隊となるべし吾
等能く敵陣を打ち開きて君等の遁路を作ら
んと勸むるに依り許多の人民は此言を信じ
て一隊になりて北門に出で東徒は其跡より
警護して出でたるに官兵は之を見るや筒先
きを揃へて打ち出したれば居民の斃るゝも
の數知れず然るに東徒も暫くは之れに應戰
したるも叶ひ難しと見たるや自分等のみは
城內に逃げ入りて直ちに門を鎖したれば居
民は前よりは銃丸霰の如く飛び來るも跡へ
引くべき道を鎖され尙籠中の鳥に等しく大
抵は打ち倒され偶ま命ある者は皆な東徒と
見做されて捕はれたり城內に退さたる東徒
は此有樣を見るや城壁に登り大聲に呼んで
曰く我が徒の大巨李福龍(十四歲の童と稱
する者)も全祿斗も皆討死せりと官兵は此
言を聞いて全く巨魁二人を斃したりと思ひ
難を避けんとしたる生民を殺して亂徒を討
ちたりと思ひ巨魁二人を斬り亂徒數十を捕 斬せりと▣報したるなりと云ふ

●公文 支那人同順木と稱するもの外五
六名の連中は全羅道騷亂地方を何處となく
彷徨し轉運御史が發したる公文なりと唱へ
振れ廻る其要旨は華兵六千人下來し騷亂を
平定するに付之に對する糧米運搬等の事は
我朝鮮人より盡力すべし云云と記しある由

●官兵全州を復す 第二の大勝復城の報
は韓曆五月八日を以て來れり今度は實に城
を復したるには相違なきも敢て大戰大勝の
上には非ざるが如し其次第を聞くに東徒は
今回淸兵一萬餘人來り攻むと云ひ他の各國
の兵丁も接踵して來り圍まんと云ふの說を
信じて迚も城の守り難きを思ひ姑く全羅道
中最も要害の聞えある茂錦山の深谷に退き
て時節を待たんとの計を定め五月四日の
夜に乘じ竊に城の東方に拔け出でゝ悉く逃
れ去りたれば官兵は直に入りて全營を復し
たるなり茂錦山▣退きたる事は逃げ後れた
る東徒の一人を捕へて▣實を得たりとなり
又同營は遭亂後營中皆空屋にて藁屋根の如
きは殘らず取り外して之を銃丸よけに用ひ
たる抔實に狼籍たる有樣は見るに忍びずと

●露國公使の忠告書 頃日專ら風說あり
曰く去る十二日の朝鮮國公使館より外務督
辨の許へ左の意味の忠告書到來せりと

東徒の擾亂何んぞ恐るゝに足らん均しく
是貴國の民ならずや東徒果して城內に襲
來し國運を擾亂する事あらん乎他は去來
知らず友誼を重んずる列國は決して傍觀
拱手せざるなり故らに淸の兵力を賴みて
之を鎭定せんとするに至りては韓淸兩國
の間特に何等私情の存する者と確認す時
未だ後れず假令旣に淸兵の到着したる今
日に在ても之を用ひずして急速歸國せし
むるに如かず若し夫れ之をも肯んずる事 なく妄りに鎭定の事に當らしめん乎日淸
の葛藤は忽ちにして惹起せん加之我露
國に於ても必ず默止せざるなり

●洪鐘宇外兵借來說に反對す 外兵借
來の廟▣生ずるや洪鐘宇は直に閔惠堂に面
して大に其不可を論じ惠堂も爲に頗る色動
きたりと云ふ洪や愈よ三國和盟の看板を掛
けんとする乎

●監司と郡司の處刑 前全道羅監司金文
鉉は亂民の闖入を禦ぐ能はず城を▣て境を
越て遁れたる罪輕からずと雖も特に酌量
を加へ死一等を▣じて巨濟島に流罪又古阜
の郡守たりし趙秉甲は罪犯輕からず終に南
道の大擾を引起したる者なれば尋常の刑に
更に一等を加へ遠惡島に流罪せらる

●雲峴宮の對策 大院君は此程召に依て
參闕し泣て弊政の狀を訴へ矯革の止むべか
らざる事を上奏せられたるに付殿下は除弊
の策を再三御推問あらせられたるも左右を
憚り一語の答言を奉らずして歸宮し後封書
を以て對策を捧げられたりと云ふ

●幼童婦女を歸さん(支那人) 京仁兩地
に在留する支那人は公達に依り明後日肥後
丸便にて幼童婦女を歸國せしむる由

●漢陽號支那の指揮を受く 汽船漢陽號
には此程來二名の支那士官乘り込み牙山と
仁川との間を往復して重に通信の用を足し
萬端支那官署の指揮を受け居ると云ふ

●漢陽號復仇談 漢陽號が遭難せしこと
は前便に報ぜしが其後同船が群山に滯泊す
る際圖ずも前日害を加へたる惡徒連の一人
目に掛りしかば忽ち捕へて本船に引致し彼
等が暴行を加へたる通りの方法を以て之を
縛し暫く其儘に捨て置き後ち仁川に連れ來
るべきや否やの相談を爲したる處船中に吳
主事なる者あり同人の話に由り遂に之を解 放したる後此頃仁川に入港したる處此事早
くも京城政府へ聞え吳主事波戶場へ足を跨
ぐるや否京城捕吏に拘引せられたりと云ふ

●上海米を兵糧に充てん 當港波戶場に
堆積せる上海米の內一萬三千餘袋は淸商同
▣泰の所有に係るものにて同店には去る十
一日迄賣物として市場に出したるが翌十二
日は二三の買手現はれたるにも拘はらず賣
却を拒絶したり之れ全く兵の糧食米に充
てられたるものなりと傳ふ

●全羅西海岸の動靜 全羅西海岸を航し
て歸仁したる或る海員に就て彼地の動靜を
聞くに左の如し

海岸線騷亂地の南部務安地方は相變らず賊
勢猛烈の由にて務安の西南五里許を距る木
浦の如きは危險の患ひ大に之れあり船舶を
碇繫すること能はず北方法聖に向へり

靈光は海岸線騷亂に對する官兵の本營を設
けたる▣なるが五月廿七日賊兵と戰ひたれ
ども遂に敗を取り爲めに營兵の脫走するも
の甚だ多く到底支持すべからざるより翌翌
廿九日此地を引き揚げ全州に向へりと聞け
り斯る次第なるを以て其後の靈光は賊の蹂
躪する所となり每夜山上に篝火を焚き人心
恟恟として法聖の如き其餘波を受け危險少
なからざるにより玆にも暫時碇泊するのみ
にて熊淵に向へり、熊淵に於て彼徒の動靜
を聞くに前日夜を徹して四方に銃聲喧しか
りし趣きにて今尙ほ人心安堵の樣子なく何
時大事の起らんも測り難しとて恐怖一方▣
らざりしといふ

熊淵に滯泊中陸上より左の二報を得たり

當地を距る五里許のスナンと稱する村落
にて五月廿八日東徒擾亂し火を放ちて人
家八十有餘を烏有に歸せり

東徒は去る廿七日長城の戰に勝を得て 大砲二門を分取り官兵大氣力を沮喪し反
て東徒の軍に加はるもの甚だ多く勢ひ破
竹の如し

我船は六月一日群山に入港せり然るに東徒
襲來の警報到れるを以て他の三四帆走船は
直に何處にか向つて出帆し我船及び今一艘
の帆走船は長岩まで沖出を爲せり翌二日は
彼の全州陷落の警報を得たり云云

●匿名の書を閔惠堂に投ず 今より六七
日前の事とか一人の從僕めきたる者書狀を
携へ來りて之を閔惠堂の門衛に渡し去れり
門衛は何の氣もなく之を惠堂に差▣したり
惠堂は之を披閱せしに「汝は亂臣賊子なり」
と認めありしゆゑ直に門衛を呼び手紙を持
ち來れる者の跡を追はしめたねど何れへ行
きしか更に知れざりしと

●我兵の派來 は寢耳に水の觀ありたる
より京城仁川間の巷談風評は層一層其揣摩
を逞ふして殆ど底止する所を知らざるな
り今ま其二三を摘めば朴泳孝其他玉均の餘
黨も兵の內に交りて來れり云云又淸兵日兵
露佛英米兵悉く集り來ると云へば無論大
きな事が始まらん云云又東學黨が藁を以て
銃砲玉を防ぎたりと云ふが是れは名工夫な
り日本兵も藁を買ひ込みたりと云へば矢張
り玉よけならん云云

●支那の銃砲彈藥入る 支那より輸送し
來りたる銃と彈藥とは去る十二日牛車五十
餘輛に積みて京城に引き込みたり或は云ふ
銃は千挺彈藥は十萬發と而して是れは前き
に朝鮮政府より注文したるものならんと

●一昨日の海、陸、參謀 海軍省は日曜休
みを廢し西鄕大臣、伊藤次官を始め各局課
員▣て出勤終日執務せり同省內にて休務せ しは軍法會議のみなり陸軍省も又廢休大山
大臣、兒玉次官以下各局課員午前八時より
出省し平常の如く事務に從事せり參謀本
部にても同樣有栖川大將の宮を始め奉り川
上次長其他共定刻より出頭し頗る多忙の樣
に見受けたり

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