國民新聞
明治27年(1894)
5月23日
◎朝鮮古阜に於る官軍の大敗
(五月十六日附)
在朝鮮 天涯生
本月十四日午前京城に達したる電報に一大件を載
せたり
全羅監營營將李璟鎬手兵を率ゐて賊と古阜郡に
遇ひ大ひに敗れて李は戰死せりと
營將李氏は曩に一度反賊と接戰したるが利あらず
して退き今遂に賊の手に死せり尙當時の容子を探
るに部下の兵卒は悉く逃走し李璟鎬のみ群がる賊
軍に突入し拾餘人を切りて死せりと云ふ氏は年紀
三十餘歲なるが惜みても尙あまりあり政府より倉
卒派遣されたる六百の官兵は群山近傍の海中にあ
りて未だ上陸せず政府の後命を待ち居ると云へり
余輩逆徒の勢益益猖狂ならむを恐る
◎羅州の變亂
古阜の擾動止まざるに更に羅州の變亂翩翩として
耳朶に落來る
羅州の位置 全羅道の名稱は道中羅州の二府ある
に基きたる者にして羅州一の名を錦山又錦城と云
ひ京城を去る事北七十六里かの古阜を距る北十六
里戶數千餘戶ありて現時の牧使は閔種烈と云ふ當
年七十四の老翁なり
波瀾の源因 牧使の下▣多の官吏ある中に左首及
び吏房と呼ばるゝ者あり左首は在來の兩班の務む
る者なるが吏房は執事或は御用係とでも云ふべき
役目を有し土着の平人より撰擢されたるものなり
(勿論當國の事なれば錢の嵩にて定らるゝ者なれ
ば政治上にも一方ならず便利を與ふるものなりと
ぞ)韓國在來の習慣として身分の高き者より低き
者に婚嫁の禮を取ること最忌まるゝ所なるが如何
なる原因ありてか吏部某の男左首某の娘に醮禮の
申込をなし牧使閔氏も內內手を廻はし强て左首に
此を肯がはしむやうなりいやがる娘不平なる左首
なる父にも頓着せず黃道吉日を撰みて合衾の禮を
上げしめたり此れぞ大變亂のエムブリオとも云ふ
べき者なり
偖其翌日かの娘は如何にも口惜しさやるかたなく
遂に牧使の廳門に至り閔氏の不道を罵り自害して
果てたりしにぞ牧使も世間の手前を憚りしか己が
尻壓しせしにも係らず吏房を捕へて獄屋に投じ其
不法を責めて鞭韃至らざるなく此亦獄倉の露とな
りたり此を耳にせしかの息子の憤激非常にして遂
に娘を失ひ怨恨▣るかたなき左首と結托して閔牧
使を殺さむと企てさては一揆を起すに至れり
牧使の遁走 此急變あるや牧使閔は逃れてとある
人家に潛みしが反徒の追躡愈急にして早くも其家
に集まり來り主人に閔を出せと逼り遂ひに家搜し
までなしたるが閔使は何處に行きしや影さへ見ず
空しく此を引き上げ兼て捕へ置きたる同氏の子息
の嫁竝びに孫を慘酷にも殺戮せり
閔牧使の危難を免れたる理由 家搜の際閔使は見
へざりし趣きは前の如くなるが此はかの暗房卽ち
家婦の室にして捕吏も猥に入るを得ざる一種の祕
密室なるは讀者の已に聞かれし所なるべく牧使は
全く此室に小さくなつて漸く亂民の虎口を免れた
りと
此出來事の起りし日 は確かならねど當月初旬中
なりしは疑ふべからざるが如く通知者は去十三日
夜に於て其顚末を詳にせり閔牧使其後の安不安又
反徒の始末等凡て詳細ならず古阜の民亂と共に同
地方の人氣荒きは明なり
◎羅州變亂續報
昨夜來かの牧使閔種烈氏の殺されしを說く者數多 朝鮮政府は全羅道に向て三百の兵を增發せりとの
ありて棄てがたき筋にもしか評判せり因に曰ふ閔
種烈氏は閔種默氏(當時感
慶尙全羅兩道內不穩の報は古阜と羅州を除きたる
他の部分よりも繽繽として傳へらるれど詳細の始
末は未だ詳かならず
噂あり