닫기

연락처
기념재단
TEL. 063-530-9400
박물관
TEL. 063-530-9405
기념관
TEL. 063-530-9451
Fax.
063-538-2893
E-mail.
1894@1894.or.kr

동학농민혁명기념재단 사료 아카이브 로고

SITEMAP 전체메뉴

1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
國民新聞 국민신문
  • 기사명
    明治27年 7月 3日
  • 이미지
    prd_0134_005 ~ prd_0134_008 (495 ~ 498쪽) 이미지
  • 날짜
    음력 1894년 06월 01일
일러두기

7月3日
◎東徒戰亂始末

◎湖南の戰狀
(實地探驗者の言)

○招討使は五月十二日全州に入り同十六日全州を
出發し亂民を追ふて南方に向へり京軍の初めて戰
ひしは五月廿七日なり夫れ迄は地方鄕兵との間に
小戰ありしのみなりと云ふ同廿七日招討使京軍を
率ひて黃龍川(靈光本陣より凡そ四五里)に出で賊
軍七千と戰ひ大に敗れ隊官及兵丁二名戰死す(賊
の武器精ならざるが爲め京軍敗を取るも每に死傷
少なし)而して賊軍は却て殺傷多かりしとなり賊
勝に乘じて靈光に迫る此時淸州兵及び江華兵等招
討使と合せり然るに賊軍は方向を一轉して長城に
向ひしを以て招討軍も亦直ちに賊を尾し蘆嶺に至
り追ひ付きて之を追擊したるも賊軍之れに應ぜず
長驅して直ちに全州に向ひたり此時全州全く空虛
なりし爲め五月卅一日の午前賊軍苦もなく全州に
闖入して直ちに電報局を破壞し全城を占據したり
招討軍は一日後れて六月一日全州に至り直ちに城
外南西の地に陣して城を圍めり同日午後賊軍四千
南門より出で一小川を渡りて官軍の右翼なる江華
兵を擊つ江華兵敗走し背後に在る完山の兵と合し
て反擊す賊軍支ふること能はず退ひて西門より城
に入り堅く城門を鎖し官兵門際に迫りしも破るこ
と能はず引ひて陣に歸る是より賊軍持重して出で
す官兵も亦遽に之を攻めず只時に大砲を發して之
を劫すのみ此間官軍は專ら砲臺等を築けり六月
六日迄休戰同日午後に至り賊軍數を盡して北門よ
り出づ蓋し賊軍勝敗を此一擧に決せんとするもの
ゝ如く直ちに黃海山麓に突進して壯衛兵第三哨隊
を夾擊す官軍逡巡完山の本營を拮して且つ戰ひ
且つ退き旣に本營兵と合するや大擧反擊して賊數
百名を斃す賊軍大敗遁れて復た城に入る此役首魁
全明淑負傷し金巡明李福龍(十四歲の童兒にして
能く魔術を行ふと云ふ者)戰死す官軍亦敢て進擊
を爲さず十二日に至り賊軍終に保ち難きを知り東
門及び北門より遁逃す此時官軍追擊せんとしたる
も招討使命を下して之を止め只其逃散に任せたり 而して首魁全明淑の行衛分らず多分死沒せしなら
んと云ふ是に於て賊徒全く解散何れも鄕里を望ん
で去れり此日官軍も城に入りて全州を復せり

○賊軍の全州に入りし時は其數殆んど三分なりし
といふ

○民擾の原因は人民古阜地方官の苛政に苦み屢屢
訴ふる所ありしも受理せられず更に之を監營に上
訴したるも却て譴責を受けしのみなるより終に暴
發するに至れり而して最初亂民の事を起すや東學
黨の名を用ひたるより同黨人等所在相聚り遂に此
大事に及びたり然るに其實東學黨人は甚だ鮮く擧
動も餘り亂暴ならざるも其率ひたる人夫等到る所
狼藉を極めしを以て大に土民の人氣を損じたり

○賊軍の全州を去りたるは全く敵し難きを覺知せ
しに因るが如し

○前後生擒したる賊徒は悉く斬殺せり

○逃亡離散の徒は降服せし者と認め追跡すべから
ずとの命令招討使より出でたりと云ふ

○全州逃去の後附近の地方にて擒はれし者二三十
人あり何れも斬殺せらる

○賊徒の殺されし者前後二千名に達すと云ふ

◎賊兵の武器は火繩銃竹槍長刀の類なり黃龍川に
て戰勝の時大砲一門機關砲一門小銃三四挺を奪ひ
たりこの大砲及び機關砲は何れも全州回復の節官
軍の手に戾れり

○招討使は成るべく地方人民を害せざらんことを
努め且つ全州にて賊徒の逃走を見て追擊せざりし
等の擧動大に地方人民の仰望を得たり

全羅道全州戰亂地圖

●圖解

▲イ 監營 ▲ロ 本館 ▲ハ 招討使 ▲
ニ 客館▲ホ 電報局 ▲ヘ ▲ト 豐
南門 ▲チ 沛西門 ▲リ 拱北門 ▲ヌ
完東門 ▲ル 燒失三十餘戶 ▲ヲ 仝三百
餘戶 ▲ワ 仝戶數不詳 ▲カ 人家千餘戶
あり ▲ヨ 東徒の墓 ▲タ 泰仁街道 ▲
レ 壯衛兵右三小隊 ▲ン 賊軍 卽ち陰曆
五月三日賊軍北門より出でゝ右三小隊と交戰
したる地なり ▲ツ 黃德山 ▲子 東徒の
墓 ▲ナ 官○本○ ▲ラ 東徒の墓 ▲ム
完山 ▲ウ 山城 ▲井 江華兵 ▲ノ
賊軍 卽ち陰曆四月廿八日賊軍南門口より出
でゝ江華兵と交戰したる地なり

◎回復後の全州
(一行商の實見記)

○六月十二日全州回復招討使は直に入城新監司は
其翌日入營せり

○同十三日東徒は全州に闖入して第一に電報局を
參禮に設けある由に付き該地に至らんと公州出發
途中黃山に立寄りたるに日本商人十六名に出逢へ
り右等は商業の爲め同地に在りしが一時取引を休
みたる迄にて別に被害の摸樣もなく或は暫らく仁
川に引き揚げんと用意せしも賊勢次第に衰退せる
に付き其儘引續き滯留せりと

○同十六日參禮に到着す然るに電報局も旣に全州
に復設せりと云ふを以て直ちに全州に向ひ同日中
に到着して其摸樣を見るに全く鎭定の後にて居民
も舊に歸り來りて安堵し別に再燃の氣遣ひなきが
如し

○全州にて兵燹に罹りたるは西門外にて千三百餘
戶門內にて凡そ三四十戶なり

○全州回復の後逃散せし賊徒の泰仁に聚りし者差
當り生活の途なき爲め再起の取沙汰ありしも全州 より宜吏出張說諭を加へたるを以て何れも離散し
たり

○全州にて監司の話しに淸兵は來らずと

○平壤兵及び巡邊使は尙ほ參禮に止まりて全州に
入らず

○同廿日全州罹災の人民へ政府より葉錢一萬兩を
下賜せり

○巡邊使は同廿一日都倉より船にて歸京せり

○廿二日招討使は京兵を率ひ陸路全州を發せり

○全州には江華兵と淸州兵と居殘れり

○廿四日全州を發して歸途に就き皇華亭に至りて
淸兵十八名に出逢へり全州に赴くと云ふ

○廿五日定州にて淸人十二人に逢へり是れ亦兵丁
なるべし同く全州に向ふと云へり

○同日公州に着後聞く所に依れば曩きに自分が公
州出發の跡淸兵四十名同地に來りしも直ちに牙山
に引き返へせりと

○廿六日公州出立此日招討使も同地を發せり

○廿七日淸人四名兵器を搆へ銃入の箱二個を馬に
載せて公州に向ふを見たり

○公州は旣に平常に復したるも未だ藥令市に出づ
る商估來らざる爲め何れも困り居れり

○全州附近の地及び歸路の農業は民亂の爲め格別
被害の樣子もなく植付も旣に了り農民等は何れも
經過の良きを喜び居れり其他の各地も民亂の爲め
に農作を休みたる等の摸樣少なし

○漢城駐在淸國理事唐紹儀は巡査三十餘名を隨へ
去る八日公州に着したり其時淸兵大に來るべしと
の噂盛なりしも唐理事は直に引返へし巡査のみ居
殘りたり

○日本兵渡韓の評判は途上甚だ喧しかりしも淸兵
との取り合にて朝鮮には何等の關係なしとて頓若
せざる有樣なり (朝鮮新報抄載)

이 페이지에 제공하는 정보에 대하여 만족도를 평가해 주세요. 여러분의 의견을 반영하는 재단이 되겠습니다.

56149 전라북도 정읍시 덕천면 동학로 742 TEL. 063-530-9400 FAX. 063-538-2893 E-mail. 1894@1894.or.kr

문화체육관광부 전라북도청