8月5日 東學黨▣ 昨年十二月居留地を發して海路扶安縣 東學黨再び起る 東徒一時鎭靜の後陰曆六月二三 擧兵の名義 に曰く我徒は襲に弊政を釐革するの 東徒大會議 斯くて一時蹟を暗ませし徒は忽ちに 方略 其頃までに議決せし方略は十六日大會の後 富者を苦む 東徒は蓋し社會黨の一種か彼等は富 評判 初度に大旗を樹てゝ茁浦に入り來りし時は 白布の帳 白布の帳を一たび振へば銃丸皆地に落
○釜山特報(
の往來を見、或は將に首を刎ねられんとするの災
厄に逢ひ萬艱を嘗て漸く去る十三日同所を發し二
十七日當地に歸▣したる人の話を聞き得たれば左
に報ず
日(我七月四五日)頃商用を帶びて忠淸道の恩津領
內なる江鏡に赴き一週間許りを經て歸りたるに出
發までは東徒再起の模樣は毫もなかりしに僅僅一
週間內に古阜、扶安、茂長、金堤邊は再び東徒蜂起
して軍資糧食を集め頻りに謀議を凝らし今や將に
再び兵革を見んとするに至れり
目的を以て起ちしに詔諭に逢ひ招討使と和し▣の
すべきの條項十三を開陳し容納に遇ひ其實行如何
を見んが爲めに且らく武を偃せて務安に退けり然
るに日本は大兵を派して我國家を呑んと欲せり日
兵は大擧境を壓し旣に京に入る是れ國家危急革釐
なり苟も國を思ふ者は戈を採て起ち防禦すべきの
時にして又內事を問ふに隙あらざるなり故に我徒
は先づ起て日兵を防禦すべし四方の士夫れ我徒の
微衷を察して來り拔けよと云ふにありと
して呼應し就中茁浦附近の東徒は▣最も盛にして
東徒ならざれば或は禍に逢ふを以て擧て東徒と稱
するに至れり而して彼等の巨魁等は謀議をなし終
に六月十六日(七月十八日)を以て金堤郡に於て大
會を開くに決せしは六月八九日頃なりと云ふ
大擧して羅州を襲て之を陷れ其餘賊を以て南原
及び晉州を▣きて之に據り▣を扼し以て日本兵の
北上を拒がんとするに在り
者を脅迫して金穀を奪ひ來りて之を貧民に賣與す
其價の如き彼等勝手に取り極め籾一俵(一石餘入)
五百文を以て賣與し且つ所有者をして同價を以て
賣らしむ其意蓋し貧富共通し少數人をして富を專
らにせしむるを許さゞるに在りて所在に財寶を掠
めりされば貧者は悅で買ふも心ある者は苦苦しと
思へり
弊政を釐革する由を宣言し貪官を誅鋤すと云へる
を以て人民は之を信じて歡呼して出でゝ迎へたる
▣▣實に沛公の軍が漢中に入りし時も斯くやあり
けんと想像せらるゝ許りなりしが爾後漸くにして
彼等は馬脚を顯はし來り富者を犯して私利を謀る
の形蹟あり故に下等社會には評判好きも中等以上
の者は早くも彼徒は弊政を釐革し民瘼を除くと▣
▣するも其實は私利を營む徒なりと看破した▣▣
斷頭場に臨む ▣▣より▣るさ僅か一週間に東徒
蜂起すべしとは思ひも寄らざれば何の氣もなく十
日茁浦を差して歸り來り同浦を距る二里許の地に
至りたる時端なく出逢ひ多勢に對する單身なれば
無念ながらも八重繩に掛られて或る酒店の一室に
入れられ終に其家に一夜を明かせり彼等は今や日
本は朝鮮を倂呑すと信じ一切の日本人を仇敵と信
ぜりされば此夜如何なる評議やありたりけん無情
なる野蠻人は終に此人を死刑に處するに決し斷頭
場へと引き出しぬ嗚呼天なる哉命なる哉蠻烟瘴雨
の中に居ること半歲餘、熱心商業に從事したる外何
の犯せる罪なきも災禍は今や落ち來りて野蠻人の
毒手に斃れ曾て同胞に知らるゝなく徒らに瘦▣の
腹を肥やして止まんとす此時此人の心中如何ぞや
思ひ遣るだに憤怒に堪へざるなりされど身はこれ
屠所の羊と一般萬免るゝの道なし命なりと覺悟し
て靜に斷頭場に臨める一利郡一策を按じ萬一を試
みたり一策とは何ぞ賄賂是れなり果然彼徒は色動
けり刀を首に擬するを止めり死を免ぜり縛を解け
り伴て茁浦なる偶居に歸れり暫時にして買集めた
る米及び錢は悉く運び去られたり危きと如此寸時
も止まり難し從へたる韓人をのみ止めて後事を托
し十一日開帆し途中も島島は危險なりと沖廻りし
て歸港せりとぞ
つるの理を招討使が捕囚の東徒に問ふたることは曾
て報ぜり東徒が全州城を出で銳を盡して龍頭山に
陣せる招討使を襲ひし時東徒は敵丸を拒ぐが爲め
に朝鮮の白木綿にて作りたる幕を棒の先きに附け
之を以て楯として銃丸を拒ぎ其險より發銃せり招
討使は山上にあり銃器は彼に比して銳なるに拘は
らず彼は一擧招討使を破りて勢聲を張らんとして
大に戰ひしかば砲聲は萬雷の▣ふが如く烟は濃濃
として密雲の如し旣にして敵の銃聲は聞へ▣なり
ぬ人をして之を見せしめしに白布の中には唯伏屍
纍纍たるを見るのみにして隻影もなく彼徒は旣に
悉く城中に逃れたりしなり所謂白布の帳とは則ち
是れを云ふなりけり又其後城門を開て突出せし時
招討使の本營を突かれ招討使は走りしかば追擊せ
られなば或は逃れざりしを營內に酒宴の用意あり
酒肉錢穀夥多なりしかば彼徒は之に目を奪はれて
敵を追はずして之を取り招討使は辛く免れたりと
是れぞ是れ朝鮮人の本色ならん歟