5月25日
●東學黨の擾亂 近來朝鮮の多事なる金洪事件
未だ歸着を見るに及ばず今又東學黨擾亂の警報は
頻頻雞林の天より傳はり來り其勢猖獗にして輕
輕看過すべからざるものあるに似たり想起す客歲
▣初東學黨の蜂起するあり一時喧傳する所と爲り
吾社は特に其顚末を詳にしたりき當時暴動の中
▣は▣に忠淸道に在り今年は全羅道其巢窟となれ
るものゝ如く隨うて其黨類の結合も較其性質を異
にせり昨年の東學黨は專ら內廷に向ては姦侫を斥
け忠良を進め外に對しては斥倭斥洋を唱ふる等國
家的標目を把持せるものなりしが今回擾亂を釀せ
しものは此の如き一定の主義を執れるものにあら
ず落魄の士、盜賊博徒等が地方官の虐政暴欲を鳴
らして起りたる民亂に乘じ其勢燄を添へ今は却り
て東學黨其旗色を改めて干戈を弄し故らに國都に
迫らずして地方を擾亂し以て不平の徒を嘯聚しつ
つありと云へり今仁川其他より接手したる通信を
斟酌し其後の形勢を左に分載す
亂民の實力 東學黨の中今回民亂を機として起
りたる此一派は當初四千人を結合し其半數は悉く
火繩銃を携帶し又百人の騎隊を有せり貢米兵器を
掠奪して其儲蓄乏しからずとなり
地方官の遁走 擾亂の起るや古阜近傍三四の地
方官は狼狽顚倒措く所を知らず妻奴を提げて四方
に遁逃し縣官小吏相踵ぎて所在に伏匿し鎭定の策
を講ずるものなく亂民は無人の境を行くが如く官
衙に押寄せて財物を掠奪し一層の氣燄を加へたる
を韓曆三月廿八日負商、褓商の手にて旣に報ぜし
如く初めて錦山に擊破せし外官兵の勝を制したる
を聞かずと云へり
亂民の根據 古阜の北、益州の南に山あり白山
と呼ぶ高さ廿五間老松疎立三面絶壁なり一道の細
逕を攀ぢ登れば山間深溪ありて能く數千の人を潛
ますべしと云ふ
服裝 亂民は總て白布を頭に纏ひて徽章と爲し
騎馬の一隊は通常の韓裝を爲せりとぞ白巾の賊と
でも謂ふべきか
白山の戰(亂民の大勝) 官兵(負褓の商兵)初回
の勝利は大に亂民の激厲を加へ韓曆四月二日官兵
の夜襲を白山に邀へ三方合擊吶喊之に迫り官兵の
死傷二百餘人に及び亂民の暴威益加はる
水を決す 旣に白山の大勝を獲て尙計圖を運ら
す所あり終に古阜、白山兩地の間なる堤防を決潰
し河水を引き田地を化して一碧の湖水と爲し以て
自ら固うせり
八百の親軍 韓曆四月七日郡山に着したる夫の
親軍壯衛營八百の兵隊は亂民の兇焰日に加はり威
伏すること能はず到底討伐の已むを得ざる旨を上
請し旣に進軍を始めたる趣なり
仁川ど亂地 仁川在留日本人は取引の爲騷亂地
方に店員を派出せるものあり夙に其騷亂の報に接
し驚愕一方ならず此事は商業上の關係頗る深
きに由り驅引に油斷なしと云へり (未完)
●玄海丸土産(朝鮮擾亂) 去十九日仁川を發し
て昨朝當地に歸りたる玄海丸便の齎らせ來りし東
學黨擾亂の模樣を聞くに仁川には二軍艦大和、筑
紫及び淸佛艦各一隻碇泊し居りたり同地にての風
聞に據れば夫の親軍八百は徒に虎威を恃み進發す
と聲言せば潰散すべしとて進軍せざりしに其後東
學黨の勢侮るべからざるに及び終に亂地に向へ
り旣に上陸する場合に臨み暴徒遁走せんと思の外
頑然動かざるにぞ今は是までなりと上陸したるに
圖らざりき亂民の一部降を乞ふものありしより親
軍は大に喜び備を懈り其夜宴席を張りしに降民不
意に躍立ちて襲擊しければ其狼狽一方ならず大敗
せり此戰に二百人許の死傷はありしならんとの
事其報の京城に達するや駐在兵をば悉く發せんと
の議ありしも斯くては京城の守備完からずとて其
幾分を派遣することゝなれりと亂民の中に四五名
の日本人ありとの說は事實なるが如し元來全羅、
慶尙、忠淸各道沿海地方は我九州地方より出稼す
る漁民多く密貿易も隨うて行はるゝよしにて或は
此仲間の者が混入し居らんも測られずと云ふ又親
軍携帶の銃器は殆んど廢物同樣なるに亂民の方は
却りて凡そ二千庭許りの完全なる小銃を携へ居り
兎に角草賊とは謂ふべからず然れど仁川にては何
の影響をも蒙らず貿易商業上一も異條なしと云
へり
●朝鮮亂地の略圖
朝鮮の警報連日の紙上に在り讀者此略圖に據りて記事を按
ずれば亂地の形勢自から明ならん
古阜は京城より南凡そ六十里、仁川より南四十餘里、海岸より十里許の地
(イ) 京城 (ロ) 仁川 (ハ) 郡山 (ニ) 益山 (ホ) 錦山 (ヘ) 沃溝 (ト) 臨陂 (チ) 扶安 (リ) 興德 (メ) 古阜 (ル) 高敞 (オ) 羅州 (ソ) 興陽 (カ) 芝罘行