6月1日
●東學黨擾亂(別報) 前號其近狀を悉せり今又
別報に據りて左に之を補記す
韓廷の三意外 今回の擾亂に關して朝鮮政府の
意外に出でたるもの三、昨年の亂民は一片の綸旨
と魚允中の按撫とに由りて散去せしも今年は然ら
ず、八百の招討其地に向はゞ風を望みて潰えべし
と思料せしに却て反激の勢を加へ益益猖獗を逞
うするに至れり、招討の軍隊は洋式習鍊を經たる
精銳無比の者なるべきに一擧して亂民の挫折する
所となりたり、之がため廟堂の周章言ふべからざ
るものあり
外兵請援の議を排す 亂民の氣焰容易に當るべ
からざるものあるより韓廷深く之を憂ひ外兵の力
を藉りて鎭壓すべしとの議ありしが斯くては自主
自護の大旨に乖戾し適ま以て外國干涉の端を啓く
べく且日淸孰れの兵を借らんとするも條約の現存
(天津條約を指すか)を奈何せん若し之を破りて顧
みざらんか兩國の爭端は忽ち開け八道を擧げて日
淸交鋒の場たらしむる如き大事に至らんも亦知る
べからず韓國の無事十年の久しきに亘る一に條約
の現存に因らずんばあらず是を之れ問はずして猥
に外兵請援を唱ふ思はざるの甚しきものなりとて
斷然之を排斥したりとなり韓廷亦人ありと稱すべ
きか
招討軍の增發 外兵請援の議旣に消滅し後繼派
遣の事に決し江華留守兼海軍總制使閔應植氏は去
十八日江華に下り營兵五百を徵發し中軍徐炳薰氏
をして軍を統べしめ彈藥四十餘萬發を備へ廿一日
仁川に出で食糧、石炭を積入れ翌廿二日午後五時
夫の顯益、海龍の二汽船にて亂地に向ひ洪招討使
の軍と合したり
徐中軍一行の組織 形式上の組織は次の如し但
其實果して如何を知らず
出駐大將 徐炳薰 亞將 李鋪大
兵使縣監 李容仁 前哨哨官 金奎亮
中哨哨官 趙重鍊 右哨哨官 劉錫淳
別哨哨官 崔浩城 策應監官 宋泰赫
鍼醫 宋植起 中哨書記 朴順英
右哨書記 金重聲 (以下略)
亂民の飛檄 韓曆四月十四日(我五月十九日)洪
招討使の完營より韓廷に達せし電報に曰く頃日細
作馳せ歸り亂民大將の飛檄を傳ふ其略我下卒の俘
虜となるものある五十餘人、別に羅州に囚繫せら
るゝもの二十七人是れ痛駭の極たり各部諸將千五
百の兵丁を率ゐ金馬木蛇期を誤るなく來會せよと
ありたり事不測に出づ速に後援の送發を待つとあ
りしよし檄中金馬木蛇とは隱語にして或は午日巳
刻など云る意味にはあらずやと解せるものあり
賊情具申 全羅監司金文鉉氏より韓廷に具申し
たる要領には目下東學黨の各地に屯聚せるもの大
陣は茂長、靈光其他六所、小陣十九所あり大なるは
兵丁數千、小なるものも五六百を下らず鄭道令を
總將に、徐葱角を左大將に、崔大雅を右大將に推
し晝間軍法を操鍊し夜間經文の如きものを誦讀し
戰に臨み殺さずして勝つ者を首功とし過ぐる所
秋毫侵掠せざれとの軍令を布けり陣を設くる必ず
白布の帳幕を前面に掩ひ彈丸を防がんとすとぞ
全羅監營門の榜書 金世豐の子壻弟十一名脫し
て東學に結び又書を全州南門樓に揭げたり文に曰
く
方今の事勢は坐して死を待つべきに非ず雄兵百
萬猛將三千各各信地に在りて以て斯日を待ち天
師に逢ふべく禍色迫り來るが故に更に各部村士
に飾して飛書千里以て速かに主を爲さしむるを
可とす國事を以て之を論ずるは所謂る執權大臣
なるもの皆閔を以て姓とし終夜滿腹經營して只
に私慾を肥すに切なり其黨派は各邑に在りて日
日民を害することを事とす民何を以てか之に堪へ
ん所謂招討使なるものは本と無識にして此地に
來着後東道の威に畏れて兵を出すことを得ず而し
て妄りに賢良有功の人を殺せり是れ名を釣り邪
を飾るの策なりと云へども久しからずして必ら
ず毒刑を受けて死せん三年の內に國は俄(魯西
亞)に歸し人人洋に歸するは惜むべきにあらず
や是故に東道大將義兵を擧げて以て民生を安ん
ず
兵器賣捌禁止の告示 昨今東學黨の擾亂益益劇
しきに由り朝鮮監理署より其取締方を我が釜山領
事館に依賴し來り室田總領事は左の告示を發せり
目下全羅道に於て東學黨の擾亂有之に付ては此
際當國人に對し獵銃火藥護身用刀劍及び仕込杖
等一切交付せざる樣注意すべし
右監理通商事務の依賴に據り告示す
明治廿七年五月廿三日
總領事 室田義文 (未完)