6月5日
●東學黨益猖獗
(
官軍敗れ大將死す全州は東學黨に略取せられ電
報通せず政府狼狽し京城の人心洶洶たり又兵六
百を發す
(以上二項は一昨夜及び昨朝城外とせしモのな▣▣及ばざ
る方もあらん)
●朝鮮警報 (
朝鮮の內亂に就き左の要報を聞得たり
東學黨の叛亂に就きて曩に其筋より朝鮮に派遣
し實地視察をなさしめたる武官あり武官一昨二
日歸來り東學黨の形勢愈よ大亂とならんとする
趣を報告せり
朝鮮政府は淸國より兵を出して東學黨を鎭撫せ
られたしと駐在官袁世凱氏に申込みたるに袁氏
は至極同意なるも公然淸國政府へ請求する方宜
しからんとの旨を告げ朝鮮政府已に公書を以て
淸國政府へ援兵派遣の請求をなしたるよし
我人民居留地保護として若干名の巡査を朝鮮に
送らんことに決定したり
朝鮮駐在官より日日祕密電信にて危急の狀を報
告し來り朝鮮政府は已に淸國政府へ出師の請求
をなせしこと明瞭となりしかば我當局者は陸軍
大臣邸に會議を開きたり今日も早朝より會議し
つゝあり海軍大臣も之に會せり
大鳥公使は內閣の方針確定せば今日の中にも直
ちに出發すべしとなり
此報も昨日取りあへず號外とせしが一旦電信
局の配達を受けし後東京にて俄に其中軍機に
關する事に就き修正を施すに至りしかば號外
として報道するまでに太く手間取りたり
●陸軍大臣邸の會議
(
前刻電報せし陸軍大臣邸の會議は參謀會議にて
有栖川參謀總長殿下及び川上參謀本部次長、大
山陸軍大臣、西鄕海軍大臣、伊藤內閣總理大臣、
兒玉陸軍次官、中牟田海軍軍令部長其他將校出
席し午後二時に至りて閉會せり議する所矢張り
朝鮮に關する事なりしならん
●軍務局 (同上)
陸軍省軍務局は非常に繁忙なる模樣なり
●朝鮮行の巡査 (同上)
前報朝鮮行の巡査は二十人にて明日か明後日出
發す全く我公使館護衛の爲なりといふ
●東學黨京畿に迫らんと
す (
昨三日京城發にて左の電報ありたり
官軍又全州礪山に大敗し副將以下死する者二百
餘人、東軍已に公州石城を占據し將に京畿に進
まんとするの勢あり是に於て韓廷更に五百餘の
兵を發して天安の街路を扼したり
●朝鮮兵亂 實にや生民の血は絶えず地球の上
に流る朝鮮に於ける洋倭斥逐の革命軍が意外にも
破竹の勢を以て京城に迫れりとは電報の示す所な
り而して中にも吾人が耳朶を貫くものは朝鮮政府
より公文書を以て出師來援を淸國政府に請ひ淸兵
將に境を越えんとする事是なり十八年五月に於け
る天津條約の一節を案ずるに曰く
一將來朝鮮國若し變亂重大の事件ありて日(日
本)中(支那)兩國或は一國兵を派するを要す
るときは應に先づ互に行文知照すべし其事定
まるに及では仍卽ち撤回し再び留防せず
淸國果して援兵を出したるか抑旣に我國に向て
行文知照を經たるか是れ吾人の聞かんと欲する所、
他日當に詳論すべき也
●朝鮮の風雲益急なり 全羅道を根據としたる
東學黨の亂民連戰官兵を破り全州は早く其有に歸
し今は旣に進んで忠淸道に入り公州石城を占領し
政府は爲に援兵六百を增發して天安の要衝を扼せ
しむるに至れる事旣に一昨日來の電報に見えるが
如し石城は京城を距ること陸路我廿六里、天安は
十八里廿四町許なり京城の周章以て知るべし
●東學黨の占領地 亂民の全州を侵略し忠淸道
に進入せしこと前項の如し今全羅道に於て占領せ
る地區を擧ぐれば左の如し
羅州 守兵八百餘(京城まで六十六里廿四町)
光陽 同千百餘(同七十二里十六町)
扶安 同三百餘(同五十里廿四町)
興德 同千四十餘(同五十六里)
高敞 同六百餘(同五十六里卅二町)
益山 同八百餘(同四十里)
寶城 首將、副將の兵營あり總勢一萬六百餘
●朝鮮の內情 去廿三日京城發にて當地の或方
に達したる報には東學黨は風說ほど强大の勢力は
なく來月下旬にも至らば鎭定すべし左れど若し朝
鮮政府にして東學黨騷亂鎭定を名として淸國政府
に出兵を乞ふに至らば其時こそ朝鮮政府が支那の
屬國となるべき端緖を開き由由しき一大事なれば
油斷なり難しとは獨立黨一派の意見なり朝鮮現政
府に立つ閔泳駿支那駐在官袁世凱氏に謀りて淸廷
に出兵を乞はんとしつゝ在りと云へば今後は事大
黨と獨立黨との間に一大爭鬪を生ずるに至るべし
云云とありたりと云ふ