6月8日 京城重圍に陷り官吏難を仁川に避くる者ありと ●保護か鎭定か 朝鮮の禍機一たび破裂して今 ●東學黨の擾亂 東學黨が長驅の模樣は載せて 全州の侵略 全州は京城を距ること六十餘里全 監司の交迭 政府は金監司の罪を數め之を罷免 亂民の前途 亂民は旣に韓人が鬼神の如く恐怖 斥倭の口實 東學黨の飛檄には洋倭を斥けて聖 運糧官の任命請求 洪招討使頃日韓廷に以聞 ●公州の地勢 夫の東學黨の占領する所となり
●朝鮮警報の信僞 (
の報ありとて帝國通信社より齎らせり信じ難し
とは認めしかども或方へ實否を問合せしに東學
黨は矢張り京城二三十里以外なる公州地方にあ
りて夫程には進み居らざるが如しとなり尤も帝
國通信社は之を昨日朝鮮より或方に達せし電報
といへり、
は滔天の勢とはなれり西隣淸國は接壤の地なれば
之を度外に措かず旣に千五百の兵を發して之に臨
めり是れ言ふまでもなく暴民征討の爲なり斯くな
るからは我邦にても最早や手を袖にして坐視する
能はざるべし當局者の方略は知らず吾人の見る所
を以てすれば政治上に貿易上に關係の厚き彼が如
くなる朝鮮の擾亂をば空吹く風と看過することは
出來ざれば勢ひ多少の兵を發して朝鮮に遣らざる
を得ざるべし果して師を出さん乎何を以て主眼と
すべき居留人民の保護是れ無論の事なり偏に保護
に止まるべき乎議者或は曰ふ朝鮮の國たる吾と一
方ならぬ交誼あり此際宜しく進んで叛亂を鎭定す
べし何の遠慮することかはと然らば若し出兵する
場合には時宜により進討することもあるべく單に
居留地守護に止まらざるべき歟其邊の事は今より
說くを要せざれと是亦全く贅言にあらざるべし
連日の紙上にあり今更に其石城に屯し京城に迫ら
んとするまでの戰狀を左に揭り
羅道第一の都會なり西に科灘あり舟楫の便あり人
家稠密貨財委積し稻魚に富む監營を備へ新式の兵
七百、土着の兵四百あり監司を金文鉉といふ監司
の職たる行政、司法、兵權を兼ね威力頗る强大なり
亂民旣に古阜より起り以北全州の監營を陷れんと
す然るに政府は初め優柔不斷にして亂民を意とせ
ず速に勦討するに及ばざりしが此報を得て大に狼
狽し俄に出兵の事ありしも亂民は終に監營を陷
れ武庫を發きて砲銃刀劍を掠奪し勢力數倍せり是
に於て監司隷屬の兵士等は大に之を恐怖し亂民に
內應するもの夥しく中には公然降附するものあり
斯くて亂民は數日の間に全羅一道を席卷し容易に
忠淸道公州に入り石城を陷るゝに至れり
し金鶴鎭を以て之に代へしことは曾て揭記を經た
る所なり
せし監司を走らし監營を陷れ其兵力容易に當るべ
からず閔氏の一族を倒さゞれば已まずと稱し大に
氣勢を張りければ韓南三道風を望みて歸服するに
至れり
道を淸澄すべしと大書せるも其實は口實に過ぎざ
るべしと云へる說あり其故は此黨は未だ嘗て我邦
人に對して兇行を加へたる例を見ざるのみならず
未開人民の習として暴威を逞うすべき理なるも却
りて日本人を款待せる風あり嚮に擾亂の起らんと
する頃忠淸道を發して釜山に至りし人の話に旅行
中自から東學黨と名のれるものに出會せしも曾て
危害を加へず又黨中には久しく我邦に在留し若く
は洋行したる者あり相應の學識を有し事理に通ぜ
る輩少からず然れば自國の外には支那あるを知れ
るのみなる韓國人民の歡心を買はんには景も利あ
る口實なれば特に倭洋逐斥の事を特書せしならん
と云ふ
して益山の人鄭元成と云ふものを擧げて運糧官
に任命あらんことを請求したりと云へり
たる公州の地勢を按ずるに公州は忠淸道監司の治
所にして東嶺の南、錦江の北に在り京城に達する
には東嶺を踰え天安郡稷山縣及び京畿道の陽城縣
を經て振威、水原、果川より以て京城に入るなり
昔豐公征韓の役に我軍南原に入りしとき明將麻貴
の兵を屯せしは卽ち此地なりしなり又古の百濟の
都城も亦此近傍なりと云ふ