6月10日
●朝鮮と隣邦 (上)
朝鮮亂起る、官之を平定する能はず、援を淸國に
請ふ、淸國の援軍旣に仁川に入り、我國も亦兵を
派して帝國公署と臣民とを保護せんと欲し、兩國
旣に行文知照を經たり、而して露國も亦出師の說
あり、變亂斯の如く、事體の大彼が如し、吾人豈彼
我の情勢を審かにして東方百年の大計を講ぜざる
可けんや、
夫れ朝鮮は東方の一角に偏在し、地小にして國弱
く、民俗太だ野なり、而して天下の耳目此に傾注
する所以の者は何ぞや、朝鮮の國たる、西北は淸
露と壤を接し、東の方海を隔てゝ我國と相對す、
露國强兵を以て宇內に雄視し、倂呑の念未だ嘗て
一日も息まず、而して西歐の野、隙の乘ず可きな
く、顧みて南下の志あり、爪動き牙鳴り、而し
て朝鮮は實に其肉なり、朝鮮亡びて而して淸國寒
し、故に淸國掩有の志あり、朝鮮折れて淸に屬
す、英の喜ぶ所にして、英は露の仇也、朝鮮我と
唇齒を相爲す、豈他の鼾聲を容れんや、是を以て四
隣互に其肉を環守して、敢て他をして慾を恣に
せしめず、天下の耳目此に傾注する此を以て也、
朝鮮小なりと雖も、其關する所如此く大なり、是れ
固より世人の熟知する所、
是の時に當り、朝鮮の形勢は如何ん、國王虛器を
擁して、政は外戚に在り、朋黨群起し、互に權柄
を爭ひ、臺綱壞墮、政紀頹敗、官貪に吏汚にして
苛稅暴歛、至らざる所なく、民塗炭の苦に陷りて
君國の如何を知らず、國帑疲弊、軍備全く空し、
是れ存すと曰ふと雖も猶亡の如き也、國政如此し
其れ如何ぞ民相胥ゐて盜と爲らざらん、大盜果し
て起り、亂民響應し、其勢甚だ猖獗、屢州郡
を陷る、彼の官兵風を聞きて奔竄し、擧廷震懾、
爲す所を知らざる、固より怪しむに足らず、夫れ
堂堂たる獨立國の政府、區區內亂を剿討する能は
ず、援を外邦に請ふ、國辱此より大なるは莫し、
然れども朝鮮の上下私慾を知りて國辱を知らず、
況んや賊勢竟に抗す可らざるをや、是の時に當り
朝鮮政府たる者誠に宜しく外援を請はざるを得ざ
るべき歟、
朝鮮政府が此の內亂に際して外援を請はざるを得
ざるは吾人之を知る、而して締盟列國中獨り淸國
に向て援を請ひしに至りては疑なき能はざる也
朝鮮の締盟列國に於ける、最も舊く且つ親しき者
は蓋し我と淸と也、我國夙に義を以て天下に聞え
而して朝鮮を誘掖する所以の者も亦至れり、況ん
や此の變亂に際するをや、曷ぞ一援兵を吝まん、
而して彼は之を我に請はずして淸國に請へり、豈
我の彼と壬辰の怨あるを以て之を踈視したる歟、
將た通交最親しきを以て淸國に請へる歟、抑朝
鮮自ら淸國の屬邦たるを甘んずる歟、夫れ果して
壬辰の怨を思ひ、我を以て信ず可らずと爲す乎、
謂なきの甚しき者なり、當時一戰乃ち熄み、復た
怨を貽さす、彼の淸朝に至りては、則國初淸祖の
韓を征するや、國王を逐ふて城下の盟を爲さしめ
永く歲貢を徵す、其朝鮮を辱しむる所以の者、壬
辰倭寇の比に非ず、朝鮮人愚なりと雖も、豈辱の
太なる者を樂▣ゝ而して怨の小なる者を思はんや
▣交の最▣▣且つ親しきを云へば、則淸に非ず
して而して我なり、明以前の朝鮮に於ける關係は
措きて言はず、愛親覺羅氏起りて朝鮮を征服して
より以來、號して兄弟の國と爲し、歲每に貢物を徵
すと雖も、是れ弱肉强食の結果のみ、決して親
交と謂ふ可らず、而して朝鮮政府の貢を致し封を
受けしは、淚を呑んで仇に事へし者なり、是れ屈
辱の歷史のみ、我國が高麗朝以前に於ける關係も
亦必しも說かず、李氏の朝鮮を一統したる後は
一帆容與として商估往來し、壬辰の一頓ありと雖
も、德川氏起るに及びては、使聘通問、交情歡
洽、未だ嘗て違言あらず、三十年前韓佛事件の起
るや、幕府は將に使臣二人を遣りて調停を其間に
試みんとせり、事果して行はれざりしも、友邦の
義盡せりと謂ふ可し、其後明治八年永宗島に於る
雲揚艦砲擊は、禍を轉じて福と爲し、翌年兩國の
修好成り、爾後朝鮮は始めて獨立國を以て世界に
紹介せられたりき、朝鮮の我に於ける豈啻に舊且
つ親しきのみならんや、其恩を蒙るも亦大なり、
嗚呼親しく且つ恩ある者を以て之を國辱の歷史に
比するに、啻に天淵のみならず、朝鮮大臣をして
常情常識あらしめば、則宜しく援を彼に請はず
して此に請ふべき也、而して今事相反す、然らば
則彼れ果して淸國の屬邦を以て自ら居る乎、朝
鮮小弱なりと雖も、國を一方に建てゝ、交を列國
に通じ、以て獨立自主の大權を條約規程の中に示
す、假令ひ其實亡びたりとも、其名は獨立國たる
を失はず、朝鮮政府大體に通ぜずと雖も、豈甘ん
じて屬邦の實を公表せんや、彼れ或は公表するも
列國豈之を傍觀せんや、三者皆謂なきの說也、然
らば則朝鮮が外援を請ぶに當りて、締盟列國中
獨り淸國に依賴せし所以の者は何ぞや、
朝鮮の外援を請ふに當り、何の國に依賴するとも
其は固より朝鮮の自由に在り、而して吾人が其獨
り淸國に依賴せし所以を疑ふ者如此きは抑故あ
り、請ふ試に之を言はん、
●朝鮮の擾亂
暗天澹地、朝鮮の形勢日一日より急なり頃日新に
朝鮮より歸航せし或確信すべき向に就きて聞得た
る最近の狀況を左に列載す
全州監營の陷落 黨軍の勢破竹の如く全州監營
に亂入し官兵潰敗の餘速かに援兵を請ふ旨本月一
日午後四時の急報にて京城に達せり是より先き洪
招討使は兵數の寡なきを以て民兵を臨時地方に徵
發せんとし關文を發して各邑より三四十人宛召募
す民兵百五十人許營門に來りて徵發に應じたる由
を言入れ其證として關文を示せり招討使乃ち其義
を賞し直に之を隊中に編入し黨軍の長城に在るも
のを進擊せんとし月坪と稱する所に屯し黨軍の至
るに會し端なく突戰せしに彼の百五十の民兵は咄
嗟旗幟を飜へし忽然二隊に分立し左右夾擊せり是
に於て招討使の兵三面敵圍の中に陷り人馬踏藉殺
傷四百人、黨軍勝に乘じて北ぐるを逐ひ遂に全州
を陷るゝこ至れり嚮に關文を照して民兵なりと稱
せし百五十の一隊は黨軍の決死隊なりしなり或は
云ふ招討使洪啓薰は此役に戰歿し完伯も亦其死生
を知らずと長城の役招討使の軍は大砲四門を備へ
其數二百五十人なりしと云へり全州は要衝の地に
して我西南の役に於ける熊本城の地位に立ち此一
敗頓に黨軍の氣燄を熾ならしめしは旣に揭げたる
所の如し是役や支那士官十七名招討使の顧問とし
て竊に全州監營に在りしも終に黨軍の猛勢を奈何
ともすること能はざりき
官兵の後繼 韓廷は全州の敗聞に接し震動一方
ならず京城各營の兵卒號泣慟哭し其聲門外に撤す
るに至れり政府は敗報の漏洩を恐れ之を口外せん
には捕縛すべきことを令し一方には招討使の後繼
として援兵を派遣し李元會を兩湖巡邊使に、嚴世
永を廉察使に任じ平壤の兵の京に在るもの五百人
各營の兵五百を倂せ出發せしめたり而して金文鉉
に代りて監司に任ぜられたる金鶴鎭は去月廿八日
旣に赴任の途に就けり諸道の官吏閔族を除きては
逃走を謀るに非ざれば黨軍に內應せんとする勢な
り閔惠堂(泳駿)は從來黨軍猖獗の狀を以聞せず苟
日彌縫一時を免かれ居りしも全州の大敗に及びて
始めて國王殿下の聽に達し擧朝の驚慌を來すに至
れり
淸兵の派遣 袁世凱の此報に接するや支那兵二
三千を呼來りて陸上皷行すべしとの風說起れり而
して此淸兵は必ずや未開港の地より潛に上陸すべ
しと傳ふる者多し(先號紙上電報參看)
袁世凱と閔泳駿 去月廿六日頃の事とぞ聞えし
袁氏は閔惠堂を其校洞の第に訪ひ劈頭韓國文武兩
班中人物なきことを喝破し語を繼ぎて曰く招討は
重任なり何爲れぞ眇然洪の如きものを擧げて國事
を誤らしめんとするか余人を戰地に派し亂民の動
靜を偵察せしむるに將に威嚴なく軍に紀律なし兵
卒は唯掠奪是れ事とし生民の侵害計るべからず而
して招討使遠く數十里以外の地に留屯し追討の事
を念はず豈招討の意ならんや閔氏曰く唯唯、大人
願はくは一臂の力を貸し救援の計を講ぜよ袁氏
曰く若し余をして劃策するを得せしめば草賊の事
旬日を出でずして勦討の功を奏せん云云此一場の
問答輕輕看過すべきにはあらず (未完)
●慰諭の綸旨 朝鮮の新任全羅監司金鶴鎭氏の
齎らせる國王殿下の綸旨は左の如し以て其懷柔政
略を見るに足らんか
傳曰天之生民、欲其生、而雨露霜雪、皆以欲生之 ●地方官の黜罰 朝鮮民亂に由りて旣に刑罰に ●歸國の兪箕煥氏 我東京駐箚書記官たりし同 ●故金氏生父の絞罪 金玉均氏の生父金炳台は ●漢陽號遭難の詳報 汽船漢陽號が黨軍の爲め 朝鮮南道地圖
也、王政之有倒解、其名不同已焉、去其凶害、而黎
庶乃得以安矣、假使一夫悖戾、一里爲之患、則尙
可以懲而戢之、其或不忍乎一、則亦爲忍乎十百矣、
此所謂有今番招討使之差遣也、邇來民生之嗷嗷
然、不得安堵者、亶由於近民之吏、不克體予如傷
若保之至意、殘虐之政無所不至、令民不得聊生、
是以有作鬧▣弊、而犯分干紀者、種種有之、其習
雖極可駭、其情亦所當矣、示以法綱、飭其痼疾、斥
出其貪汚、而薰勵之、自有 朝家之處置、惟彼亂
類中、爲以弛柝不脛之說嗷騙、蚩蚩無知嘯聚、跳
踉猖獗、藉托呼訴、實懷反側憑恃、亦多專事攘奪、
至於勒劫官長、殘害鄕里、形迹之▣傲、不可止以
鬧民論矣、夫欲生惡死、人之常情也、其惟捨其安
樂之業、就其死而之地、甘觸罔赦之科、而其困於
割剝、不能定處、適於誘脅、隨以胥動者、予豈不知
之、此予宵旰憂勤、靡遑假逸、只是爲民一事、而治
不徯志擇未下、究使爾棲遑訛難、乃至於此、予實
歉歎而民庶之眩惑▣幼、自欲投身於敎化之外者、
亦豈其常性也哉、要不出乎愚蠢沒覺之然矣、忍見
赤子之入井、不汲汲急援而救之哉、其令道臣守宰
詳明曉諭、以恩感、而不可偏廢、使各悔懊亟歸復、
安其業、非直曰以脅從罔治也、予所以惻怛惟仁先
之敎也、其蕩拆
於已改轍、務從安堵、如是佈告之後、其卽解去者、
袪其舊染、復其本心者也、▣爲▣爲解及可以利益
於民者、廣之民論、參以邑報、隨卽商確、便宜矯拯
後、據實 登聞、而若其猶得抗托、群聚不退者、豈
比於恤民、待之亦有常法、不容貸矣
處せられたる地方官は金海府使趙駿九、忠淸兵使
李庭珪、古阜郡趙秉甲、魯城縣監黃學淵等なり又監
司の交迭せられしは黃海監司洪淳馨と京畿監司金
奎弘と更任し尙監司李容植罷られて忠淸監司趙秉
鎬之に代り忠淸監司には李憲永新たに之に任ぜら
れたりと云ふ
氏は今回內務府主事に轉じたり是れ金思轍氏の前
に代理公使たりし李鶴圭氏の歸後外衙門主事に任
ぜられたると同一例なりとぞ
忠淸道天安郡に於て韓曆四月廿日を以て禁府都事
金興集臨檢の上絞罪に處せられたる旨同廿七日の
朝報に見えたり
に難に遭ひ又轉運委員金悳容が捕縛されたる由は
報道せしが其後全羅道よりの報に據れば同汽船は
去月八日蒼龍號及支那軍艦平遠號と共に八百の
官兵を分載し仁川を出發し群山に着したる後平遠、
蒼龍二船が前後して歸港せしに拘はらず貢米運
搬の爲め其まゝ同地方に滯泊することゞなりたる
が越えて同月十九日貢米積載の爲め群山を發して
南の方法聖に向ひたり此行の乘員は貢米請取の爲
め仁川より出張したる轉運委員金悳容と同地方の
貢米を集めて引き渡す爲めの轉運委員鄭萬基なり
しが鄭萬基は性來殘酷にして貢米を徵收するにも
常常不法の事多く折もあらば宿怨を晴さんとて衆
民より狙はれ居りたるより自身も用心一方ならざ
りしが此度漢陽號に密乘して法聖に向ひたる由東
學黨の探知する所となりしかば其再び出發せんと
せし時官署の使なりとて船長(日本人)に急速上陸
ありたき旨の書狀を持ち來りしものありければ船
長は何心なく之に應じて上陸せし跡へ東學の徒凡
そ三百人唐突兇器を持ちて押し寄せ來り大聲鄭萬
基を引き渡すべき旨を呼はりたり金委員始め四名
の日本人等は鄭に言含められ居りし事とて口を揃
へ左樣なる人は搭乘し居らずと答へたるも彼等は
忽ち荒繩もて金委員を嚴縛し續て四名の日本人を
も捕縛し稍稍ありて鄭が船底の石炭を積みある中
に潛伏し居るを發見し忽ち之を甲板に引出し尙船
員を亂打し鄭と金とを陸上に拘引し一匹の瘦馬を
連れ來り鄭の頭部を馬の臀部へ、足部を馬の首部
へ上向に鄭と馬とを背合に爲し兩手を逆捩にし丸
木など添へて少しも動かれざる樣縛り附け警衛嚴
重咸平に向つて引き揚げ途上之を砲殺せりと云ふ
漢陽號は此暴行に遭ひし爲め東徒の引き上げ船長
の歸船するや直ちに錨を斫り捨て群山を指して進
行し引續き御用船として群山に滯泊せりと云ふ