6月20日
●朝鮮の擾亂(承前)
朝鮮の擾亂に關する記事に就き吾社は最も其精確
ならんことを期し爲に東學黨の動靜其他の材料に
乏しき今日に方り日日の紙上期して揭載すること
を爲さず所謂不急のツナギ仕事を爲して讀者の眼
目を迷眩するを欲せず今最近の戰報數條を得たり
乃ち左に列載して先號の紙上に錄せし朝鮮擾亂紀
事續報となす
東學黨軍の三派 黨中三派の區分あり一を民派
と稱し連邑衆民の群なり二を吏派とし各郡縣下吏
の亡命脫歸したるものなり三は卽ち本來の東學黨
民とす三派中京軍の最も恐怖せるものは第二の吏
派にして皆各州邑の下吏屬僚なれば各地方の事情
より政況、産物、官衙の軍器、貯米等の內祕まで
一切通曉せるのみならず山川の險易、土地の形勢
に熟し地方兵勇の招募すべき人數、市井の無賴漢
等に至るまで悉く見極め居り臨機應變の策略を運
らすに易ければ京軍も頗る是に辟易せる有樣なり
と云ふ
黨軍の兵符 慶尙道にては一時右道に於て黨軍
數百名屯集し又大邱府の城門に羽檄を貼附けて民
心を煽動せんとしたるも差したることなかりしが
頃日に至り朴善五、朴善七なる兩志士あり道內黨
軍の狀勢を▣らんとて深く入込みしに黨軍は之を
迎へ『爲天柱造化定、永世不忘千古知』の十
三字を記したる兵符を示し潛に相往來して謀る所
ありとなり然れば京軍の爲に力を盡さんとしたる
ものも何時黨軍に投ずるやも計られずとて京軍は
狐疑心を抱きつゝありと云へり
黨軍最後の目的 黨軍は旣に記せしが如く假令
外人の逐斥を力めざるも其首領輩の唱道する所な
りと云ふを傳聞するに京城を陷れ政柄を握りた
る上は仁川、釜山、元山の三港を嚴鎖して貿易通交
の遮斷を行ふべしと云へりとぞ