6月22日
●朝鮮の擾亂 (承前)
淸國理事の出發 京城駐箚淸國理事唐紹儀は軍
裝乘馬せる屬員五十餘人を隨へ此程陸路忠淸道へ
向ひて出發せり是は本國より來着すべき軍艦を待
受け諸般の準備をなさん爲なるべしと云ふ
袁欽差の實兄 某氏は淸國援兵と共に牙山に着
し軍人十數名を隨へ漢陽號にて本月九日仁川に出
で陸路入京せしが欽差と打合すべき用件あるが爲
なりと云ふ
古阜の現狀 古阜より本月七日釜山の或向へ達
したる書狀に同地方は近日別に著るしき出來事な
し唯黨軍が頃日京軍の太砲二門を掠奪したりとの
說は事實なりと記せり
露國あるを知る 韓人の固陋寡聞なる近來始め
て其北方に露國と稱する一大雄邦あるを知り頃日
咸鏡道北境の豆滿江氾濫して地域に異變を生じ
蠶食の端を啓けりと云ひ或は曾て韓地借用の事を
申込みしも其意を得ざるより今回の內亂に乘じて
露兵旣に境內に踏込めりなど喧しく傳說し黨軍の
內亂より寧ろ恐るべきは露國の侵入なりと言合へ
るよし
東學黨の巨魁 旣に傳聞の儘を記せしが今近着
の上海新聞の紀事を閱するに全羅道東道の主將鄭
哥なるもの韓曆五月廿五日地雷を以て湖南官軍を
攻む官軍の死者二百餘名曰く黨中三人の領袖あり
一は朴、一は金、一は其姓を詳かにせず朴なるもの
素と武略に嫺ひ陣に臨む時進退皆能く法に合し官
軍屢其挫く所と爲る容貌頗る鷄籠山上騰雲庵中
打坐の老道に似たり自から太平道人と號せり其檄
文實に左の如し
全州監營門榜書
方今事勢、非可坐以待死、有雄兵百萬、猛將三千、
各在信地、以待各郡村士、飛書千里、以勤王事、以
國事論之、所有執權大臣皆閔姓、終夜經營、只知
肥己、其黨派布各邑、日以害民爲事、民何以堪、今
之招討使人本無識、自到此地後、畏東道之威、不
得已而出兵、妄將賢良有功之人殺死、藉以邀功、
久必受刑而死、惜三年之內、我國將歸俄國、是故
東道大擧義兵、以安民生