6月22日
●朝鮮事變 (六月十四日仁川發)
第四報 特派員 山本忠輔
仁川の現狀 朝鮮の我居留地中にて釜山は東學
黨騷亂地を距ること遠く從うて居留民も東徒の騷
亂に就ては頗る冷淡なり予が先日寄港せし時も至
極平穩なりしが之に反して仁川は京城と相距る僅
に八里加ふるに各國軍艦の出入頻繁なるのみなら
ず現に日本陸軍の上陸もあり月尾島の近傍には帝
國軍艦旗艦松島を始めとし千代田、高雄、八重山
大和、筑紫、赤城の七隻あり居留民は皆勇氣日頃
に百倍せりと云ひ合へり元來仁川の居留民は愛國
の義氣に富み去る十二日軍隊の上陸に當りては皆
敬意を表し現に予が宿泊する小倉支店の主人田中
佐七郞氏の如きは宿泊の陸軍兵に酒肴を饗して欣
欣たるが如き其義俠稱贊に堪へず
海軍士官上陸を禁ず 日本軍の仁川にあるは總
て戰時同樣にて警戒頗る嚴重なり碇泊の軍艦も悉
く戰鬪準備を爲しスハと云はゞ彈丸硝煙の活劇を
現出せんとする狀態にして伊東司令長官を始め各
艦の士官水兵一名も上陸を許さず是は獨り帝國軍
艦のみならず支那軍艦四隻、英艦一隻、露艦一隻
米艦一隻、佛艦皆然り竝に非常の警戒を怠らず
玄洋社員の渡韓 過つる總選擧の頃に福岡玄洋
社は軟化せりとの說もありしかど今聞く所に據れ
ば決して然らず流石九州人丈ありて飽くまで對外
硬の方針を執りつゝあり今回朝鮮兵亂には戰地視
察のため壯士三名を派するに決し便船次第渡韓す
と云ふ意氣の壯なる思ふ可し
●朝鮮事件(上海西字新聞所載) 今便にて本月
九日より十六日に至る北淸日報を接手せり朝鮮事
變に就ては未だ上海及天津等にも詳細の報道達
せざる模樣にて記する所寥々たり玆に其中稍廉立
ちたるもの二三を抄出せん○天津よりの來信中朝
鮮官軍忠淸道の叛徒と戰ひて敗走せりとの報李總
督の許に達するや直に威海衛より天津軍器局に電
報して連發銃千挺を朝鮮に發送すべき旨を令せり
是は朝鮮の近衛兵に携帶せしめん爲めなりと云ふ
○昨日(十三日)の如き朝鮮の內亂に關して種種の
風說居留地に流傳せり然れども電信局には各國領
事等より朝鮮に向ひ發する官報輻湊し居りて私報
は之が爲めに支へられて發する能はざりしかば竟
に事實を確むるを得ずして止みぬとの冒頭を置き
て十四日の首款には我邦出兵に關する八日付の神
戶通信を載せたり偖右風說の中には佛國及露國は
朝鮮に於る淸國の施爲に對する日本の反抗を幇助
すべしと云ふ說などもありし由にて記者は大に之
に疑團を置けり○九日の天津タイムスに將軍エー
は太沽、北塘、ハータイより六大隊の兵を率ゐて朝
鮮叛徒鎭壓のため出發せりとありしよし○十五日
の朝招商局の汽船海定號が上海に歸航して報じ
たる所に據れば同船は本月三日トンク(遼東灣沿
岸の地なるべきも詳ならず)に到りて吉林に發
向する兵を搭載すべしとの命を帶びて發せり而し
てトンクに達するや更に又山海關に向ひて進航す
べしと命ぜらるトンクに入らんとしける折恰も圖
南號が步兵八百と馬疋八十及所屬の雜卒を合せ大
凡一千人許を乘せて出口するに會へり今回兵員の
搭載を命ぜられたるは圖南、海定、海晏の三隻にし
て海晏は兵五百、海定は七百を搭載したるも總勢
大凡五千も派遣せられしならんと云ふ而して其向
へる所はアサン、アンチ(白石浦か)と稱する地に
してブリンス、ゼローム灣中碇泊所の一なり此地
は北緯三十七度、東經百二十六度四十八分に位し
仁川を距る南の方五十英里許に在り海定號は日曜
日(十日か)に山海關を發して指定の地に着するや
海晏、圖南の二隻と他の淸國軍艦一隻碇泊し居た
るを見受けたり云云とありしよし