6月23日
●朝鮮の擾亂 (承前)
慶尙道黨軍の占領地 七十二州以て天下に敵す
るに足るとは韓人の套語なり而して慶尙七十二州
中最要の地を占むるものは東學黨なり今其占領地
を列記せば右道山郡北方の豐基、聞慶より南、居
昌、咸陽に至る間にして尙州府を以て巢窟とし古
來黨軍の首魁は多く此地方より出づ中部諸州に在
りては密陽、淸道、彦陽等の諸郡縣を以て黨勢旺盛
の地となすと云ふ
淸兵慶尙に入るの說あり 近日大邱より釜山の
或方に達せし飛報に淸兵若干忠淸道より慶尙道嶺
南に入れりとの片信ありしが元來今回淸國の出
兵するに至りしは全羅の黨軍を攻めんとするに在
り決して道を殊にして慶尙地方に進軍することな
かるべく多分支那行商の一群入込みたるを見て風
聲鶴唳此風說を作すに至りしものなるべし
李巡邊 今回南道の征討を命ぜられたる南湖巡
邊使李元會の出身を聞くに此人は現任東海節度衙
門(水營、釜山を距る二里)水使李秉承の實父にし
て今より數年前衙門統制使として慶尙、忠淸、全羅
三道の水師を統べたりしが元來統制使は諺に一
日の統制使は一生の金衣玉食と云へるに違はず威
福を擅まゝにし私利を收むべき地位なるに李は資
性恬淡にして其職を罷め京に歸りし後は家に餘財
なき許りなりければ國王は之を憐れみ其子秉承を
擢んでゝ水使の官を授けたるなりとぞ又現任統制
使閔炯植の如きば實に奢侈を極め巨萬の富を致せ
りと云ふ
東萊府伯の急使 全州監營の陷沒と共に電報不
通となりたる以來京城、釜山間の通信は殆んど阻
絶せる有樣なれば東萊府伯ば頃日健脚をして京城
に出發せしめ事情を具申せしめたりとなり府伯は
閔泳敦と稱し頃日病みて褥に在りとか
浮說流傳 曰く淸兵大擧全州城を恢復せり曰く
黨軍四散殺戮せらるゝもの算なし曰く晉州に勃興
せし黨人旣に鎭靜に歸せりと是皆一夫叫びて萬衆
附和せる虛報なるべし
一種の宴會 韓地に事あるや日本人士の黨軍に
加擔する者ありとの評說我邦の新聞紙に傳はりた
るを飜つて在韓邦人の聞く所となり其姓名を列記
せられたる人人は相見て一笑し吾儕無責任者の誤
まる所となり黨軍に同盟せるものと爲し了れり幸
に一夕の閑を偸んで同列者の會飮を催ほさんと▣
れたりとか東京其他の新聞紙上に元陸軍大尉なる
田中某と云へる人も黨軍に投じたるやうまざまざ
と記しあるを見しが同氏は現に慶尙の鳥嶺關に在
り或事業に身を委しつゝありとぞ
●日韓貿易殆んど絶つ 輸出品の産地なる全羅
忠淸二道は東黨に蹂躪せられ仁川は兵馬塡咽し恰
も戰場の如く其影響の及ぶ所釜山も亦免れず是に
於てか兩國の商路頓に絶ち昨日釜山より入港の白
川丸は僅かに米穀、牛皮、布海苔、干鰯類千箇を積
來るに過ぎず本日仁川より入港すべき陸奧丸も多
分支那米の外は貨物なかるべし之に由て各種の商
品何れも騰貴し牛皮は三圓方飛んで貳拾圓となり
布海苔は壹圓を進て竝物六圓內外となり干鰯も亦
三拾錢方昇りて四圓七拾五錢となれり獨り米穀は
內地と脫合ひ依然として八圓五六拾錢の間に在り
●觀戰日錄 (一) 天囚居士
明治廿七年春朝鮮東學黨の亂起る韓廷之を平ぐる
能はず援を淸國に請ふ六月九日我國も亦兵を派し
て公館及び居留臣民を保護す艨艟海を壓して舳艫
相啣み斷然塞を出でゝ旣に仁川に入る將士選練忠
勇性を爲す其威を異域に揚ぐる知る可き也抑朝
鮮弱小を以て大國の間に介在し一仆一起關する所
甚だ大此の時に當り韓廷政を失ひ民怨鬱積義兵
果して起り內は則國亂麻の如く外は則强邦眈
眈たり豈東方の危機に非ずや我國彼と修好最久
し扶持自ら任じ義天下に聞え危急彼が如し傍觀す
可きに非ず況んや耳目の任に居り言議の責を有す
る者をや是を以て曩に山本氏を派して戰況を探ら
しむ尋ぎて予も亦筆を載せて觀戰の途に上る馬關
は境上の要地陸軍兵站兼碇泊場司令部を此に置く
家弟時輔派駐の任を得、此事六月十三日の夜に決
して十五日程に上る匆忙知る可し此の日午前六時
兄弟車を連ぬて門を出づ八時白川丸に上る先人沒
し玉ひし時予は三歲弟は猶母腹に在り母子煢煢
相依る者二十有七年今や兄弟竝に旣に長大同じく
筆硯を事とし遠く境外に游ぶ先人をして地下に知
らしめば其喜果して如何ん母氏鄕に在り遙に此
遊を聞き玉はんには想ふに悲喜交集らん也と舟
中家弟と相顧みて憮然
午前八時十分拔錨同九時廿分神戶に入る東邦協會
員福本日本新聞社員櫻田の二子船に上る皆觀戰の
客也對床暢談意氣甚壯午前十一時拔錨播州洋
風濤稍惡し翌十六日午前十一時馬關に入る雨甚
し福櫻二子及び家弟と上陸して春帆樓に午餐す家
弟は南隣の風月樓に投ず予と此に相別る午後五時
馬關を發す六連島に至る比ほひ天色驟に黑く大
風尋ぎて至る船を島畔に泊する者少時旣にして發
す船中一武人あり壬午甲申の亂竝に仁川に在り能
く當時の事を知悉す談牙山の淸兵に及ぶ曰く前年
の二役淸兵の上陸せしは實に此の地なり此の地禁
港に屬す而して淸兵の仁川を棄てゝ禁港に上る所
以の者は仁川實に日本人多く彼れ兵數軍容の漏洩
を恐るゝを以なりと或は然らん
十七日小雨、海霧茫茫午後一時釜山港に入る室田
領事を訪ふ在らず此の日肥後丸步兵若干を載せて
至る一半は元山を一半は釜山を駐衛する者なり徹
夜巡邏靴聲絶ず予釜山に入て遍く戰況を問ふ飛說
紛紛盡く信ずるに足らず故に錄せず夜來雨益
甚し戶外韓人笑罵の聲と雨聲と相和して騷然更
深うして寐る能はず一詩を得曰く誰將筆硯策
奇▣。八道山川漲妖氛。一夜東萊城外雨。儒生亦
夢鬼將軍。
●東學黨 ( 東學黨の形勢に就き區區の說あるも其筋へ違せ ●全州恢復の事 ( 釜山にて全州恢復の說あれども信ずるに足らず
●日本漁民及漁船 (同上)
し去十六日釜山發の電報には東學黨の氣焰衰滅
の模樣なく食料も三箇月許を支へ得べき程貯蓄
し今は忠淸全羅二道の各城に籠居す直ちに進ま
ざるは目下彼等の勢援をなすべき農民稻作に忙
はしきを以てならん官軍又は淸兵と交戰したる
の報未だ至らざるに黨軍平定せりといふは其實
を得ざるものならんとありしよし