6月27日
●朝鮮事變 (六月二十日京城發)
第九報 特派員 山本忠輔
東學黨 最初長城に官兵を敗り再び詭計を以
て全州を陷れ連戰連勝破竹の勢を以て將に京城
に侵入せんとす韓廷震懼爲す所を知らず玆に始め
て淸兵の來援を求るに決す東徒早く之を聞き知り
全州を棄て四方に潰散して隻影を止めず是に於て
韓廷得得たる色ありと雖ども余輩の觀察する所に
據れば東徒は眞に官軍に征服せられたるにあらず
日淸兩國兵の來れるを懼て一時潰散したるに外な
らず日淸の兵韓土を去らば再び蜂起せんこと明な
り而して閔族韓廷にある間は東徒野にありて敵對
せんこと亦明なり
東學黨の目的 世人東學黨の目的は斥和排洋と
在朝の奸臣を鋤き政事の改革を爲すにありと謂へ
り然れども余は以爲く彼等の目的は偏へに地方官
の虐政を矯め機會あらば閔族を討滅せんとするに
あり夫の斥和排洋の實行は未だ信ずべからず所謂
斥和排洋の事は昨年東學黨の蜂起するに當り京城
の南大門に東學黨の目的として張紙を爲す者あり
たるに基く此張紙果して東學黨の所爲たるや大に
疑なきを得ず頃日全羅忠淸の騷亂地にある日本
人二十七名以上は旅行公許を得たる者にして其他
公許を得ず商用の爲め內地に入り込みたる者數十
名あり此內には現に東學黨に出會ひたる者あるも
未だ嘗て東學黨の爲に危害を加へられしものある
を聞かず現に汽船漢陽號が全羅道の沿岸に於て東
學黨に押へられたる時の如きも船中に潛伏したる
韓官東徒の爲捕縛されたるに止り同船にある船長
を始め數名の日本人一名も殺害されたる者あらず
又日本人のみならず外國宣敎師も東徒に危害を如
へられたるを聞かず是に由て之を觀れば東學黨の
斥和排洋は更に信ずるに足らず
東學黨一揆を利用す 今回騷亂の起因は古阜地
方の人民其官吏の虐政に堪へずして蜂起したるに
在り昨年湖南地方就中古阜の如きは非常の不作に
して租稅の上納にも窮するもの多し然るに貪慾無
厭の地方官は人民の疾苦を顧みず少く納租を怠た
る者あれば片端より獄に投ぜり而して此者等は官
より食を給せず自ら食物を買辨するか親戚朋友等
の飯を送るものなければ餓死を免れず又親朋飯を
送るにも獄吏獄卒に人情を通ぜざれば囚人の手に
達せず事此に至りては如何に淳朴の農民も堪ふる
所にあらず加ふるに政府轉運所を設け蒼龍、現益、
長州府の三汽船を以て貢米を運送するを名として
貢米の外に汽船修繕費、碇泊料、運賃の差金を徵收
することを始めたり是に於て人民の苦痛其極に達
し皆決心して曰く到底死を免れず寧ろ貪虐非道な
る地方官の肉を喰ふて死するの勝れるに若かずと
古阜以下興德、羅州、恭仁、高敞、扶安等各邑の人民
一致蜂起せり東學黨は曾て斯の如き機會を窺ひつ
つあり乃ち時到れりとなし崔時亨を始め徒黨數百
名之に投じて衆を操縱す故に農民の蜂起一變して
東學黨の亂となり黃旗を立て白布を被り刀鎗を携
へ夫の五百年革命救民の大人白山に出づとの讖言
を利用して起り先づ古阜の官吏を殺し次で運轉使
趙弼泳を殺害せんとしたるも趙は事に先だち遁走
せしを以て倉庫を破り貯米を掠奪し以て糧食と
せり全羅道監司此報を聞くや數十の兵を發して鎭
撫の命を傳へ昨年東學黨蜂起の際魚允中の諭撫に
因りて退散せしめたる例を以て嚴世永を宣撫使と
して亂地に派遣し曉諭退散せしめんと試みたれど
其效なく益猛威を逞ふし猖獗を極むるを以て韓
廷も勢玆に至りては固より筆舌の效なきを知り
廟議愈征討に一決せりと聞く
招討軍敗績す 韓廷征討に一決するや先づ洪兵
使を招討使と爲し親軍壯衛營の兵隊八百人大砲二
門彈藥六十餘萬發を備へ去る八日支那軍艦平遠號
汽船蒼龍、漢陽兩號に搭載して仁川より忠淸道郡
山に發向せしめたり朝鮮官兵は元來雇役兵なるを
以て固より軍規修らず糧食被服の用意一も整はす
糧食の如きは仁川日本旅亭大佛に二千斤の麪包
を泩
に於て官軍糧食缺乏し粥を啜りて飢を凌ぎたる
も宜なり軍用金は僅に七八十圓を備へしに過ぎず
と云へり或は事實ならん是等の雇役兵固り夫の狂
暴不逞の徒に勝つべきにあらず故に官軍は只管聲
勢を以て潰散せしめんとしたれども竟に其目的を
達せず已むを得ず兵を交ふれば直に敗走し脫逃す
るもの百餘名に及べり政府は更に徐炳薰に兵五百
を附し去月二十二日汽船顯益、海龍の二隻にて全
羅道木浦に向はしめたり其戰略は徐炳薰賊の前路
に出て招討軍南下して賊の背後を討ち而して江華
軍北上して其前路を遮斷し三面合擊するに在りし
も東徒は早く已に之を偵察して直に羅州を踰えて
長城に入り再び詭計を以て官軍を破り全州を陷
れたり玆に於て東徒の勢猛烈韓廷震懼爲す所を
知ず竟に支那兵の援助を求ることとなれりしなり