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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
大阪朝日新聞 대판조일신문
  • 기사명
    明治27年 7月 3日
  • 이미지
    prd_0136_070 ~ prd_0136_073 (70 ~ 73쪽) 이미지
  • 날짜
    음력 1894년 06월 01일
일러두기

7月3日
●東學黨 (東京發)

一昨日仁川の能勢領事より左の電報ありたり

官軍引揚げたる後全羅道に於て再び騷亂起りた
るは事實なり

●入韓日錄 (二) 天囚居士

十八日雨、客舍團繫、揣摩日を送る、十九日朝來
風雨、正午漸く晴る午後一時肥後丸に上り三時錨
を拔く、五陸島を過る比ほひ雨全く晴れて風稍甚
しく夜來波高く廿日風恬かに波穩かに群島送迎し
我山陽海上を行くが如し但我は則山翠に樹茂り
其姿優雅此は則ち童山禿嶼其態▣▣なり舟中新聞
訪事の士同じく韓京に赴く者多し此夜食堂に會飮
す會する者廿餘人なり廿一日早朝仁川港に入る港
は西に向て開け、南北皆山、環りて一大灣を爲す
東岸一帶白壁相連る者を我が居留地と爲す居留地
の下は則ち濟物浦にして浦上隆然たる者は月尾島
也、島角▣あり之を贅月尾島と曰ふ相去る二三町
のみ甲島は其南に在り樹木鬱然潮退けば卽ち徒涉
散步す可し席帆柔櫓其間を來往し風景甚だ好し韓
警起りてより我帝國軍艦及淸米佛露諸國の軍艦來
泊する者總て十餘隻艨艟海を蔽ひ灣口殆んど狹し
昨今相踵ぎて出で去り僅に五六隻を見るのみ午前
八時上陸し小倉氏の支店に入る帝國軍隊の入韓以
來居留地の民家皆兵士を容れ殆んど空室なし而し
て予今半席を小倉氏に借る事を得此を大幸とす

廬山に入りて廬山を知らず畵圖中の人何を以てか
山姿水態を寫さん予旣に韓地に入りて韓情を知ら
んと欲す亦此嘆あるを免れず而して飛說人心を惑
はし易く俗耳蜚說を信じ易く最も留意せざる可ら
ず然れども騷亂起りて飛說多きは世忖の常にして 往往實相を飛說め中に得故に未だ盡く信ず可から
ず而して未だ輒ち棄つ可らず一に之を情勢に推す
べきのみ予之を胸中に藏して而して人に接し事を
訪ふ庶幾くは大差なからんか

居る者二日人に接するも亦多し流言飛說紛紛雜出
し殆んど烟を捕へ風を捉ふるが如し中に就き二三
錄す可き者あり、曰く亂民の蜂起唯貪官を驅逐す
るにあり中原の鹿を爭ふものにあらず是を以て出
沒變幻端倪す可らず全羅右道十三郡隨うて取れば
隨うて棄て未だ必しも堅守せず故に諸郡の陷落未
だ必しも陷落と謂ふ可らず郡守の奔竄のみ諸州の
回復未だ必しも回復と云ふ可らず亂民の自棄の
み初め亂軍の全州を取るや蓋し彼も亦勢に乘じ
て公州を奪ひ畏驅京に人り怨府を屠戮せんと欲し
き韓廷風を聞きて狼狽し援を淸國に請うて而して
東隣の兵も亦至る亂軍之を聞きて沮喪し城を棄て
て烟散し之く所を知らずと是れ所謂東學黨今日の
消息也曰く淸廷韓警に乘じて宿志を成さんと欲し
急に援師を出す、何ぞ圖らん東隣の大兵海を踰え
て至らんとは、耳目の集まる所支障の起る所、未
だ輒ち輕擧する能はず是を以て牙山の兵永屯動か
ず其服を變じて京に入るなきを保せざるも未だ淸
兵の黃龍旗を迎恩門內に飜へすを見ず是れ蓋し彼
が務めて我兵に衝突を避け且つ隣邦の耳目を眩ま
さんとする所以なりと是れ淸兵の動靜也、曰く民
の怨府實に閔家と爲す亂起りて閔惠堂尤驚懼し
援を淸廷に請ひ援兵旣に至りて而して亂軍烟散す
是れ太だ可、更に一大患を增すを如何せん日本出
兵の名は國旗國民の自衛に在り而して彼は乃ち謂
へらく日兵直に兩湖の亂軍を討たず大軍境を壓し
砲を要害に伏す恐らくは異圖あらんと韓廷擧げて
皆震駭し其故を揣摩して淸國の出兵に在るを知る
而して初め援を淸國に請ひし者は閔惠堂なり因り
て善後の策を惠堂に迫まる惠堂蒼皇爲す所と知ら
ず大院君に謁して峻拒する所となり竟に袁世凱の
智を借る袁曰く僕に成算あり卿等憂ふる勿れと是
れ韓廷の擧止也、未だ果して信なりや否やを知ら
ず予試みに其說を聞きて而して之を思ふ亂軍の烟
散は韜晦のみ亡滅に非ざる也彼等の出沒鬼の如き
者は蓋し之をして然らしむる者あり而して全羅右
道十三郡の風靡誠に大勢也彼等豈遂に亡滅す可け
んや他日忽然として爆發せんこと知る可く想ふに 發する每に漸く進退出沒に長じ殆んど捕捉す可か
らざるに至らん然れども今や烟散し而して日淸二
國の兵依然として屯駐す猶火旣に滅して防火夫の
喧呼已まざるに似たり韓廷今後の憂此に在るや宜
なりと謂ふ可し知らず袁姓の成算如何ん顧ふに其
恃む所の者は天津條約中事後撤兵の一節なり淸國
にして今直に兵を撤す宿志を遂げざるを恨むなき
に非ずと雖も聲と形とを以て忽ち亂民を戡め旣に
威を示すに足り今又事後撤兵の條を執りて日兵を
境外に撤せしめ韓廷の爲に目前の杞憂を除かば
亦以て恩を賣るに足らん而して日本をして懸軍千
里費巨萬を累ねて徒に韓廷の嫌忌を買ふに過ぎざ
らしむ蓋し政客の快を叫ぶ所なり所謂袁氏の成算
をして如此に過ぎずして果して實行意の如くなら
しめば則韓民の不幸也何ぞや亂軍は則烟散の
み亡滅に非ず而して怨府猶存して弊政未だ革まら
ず旣に隣邦の惠を失ふて更に膏肓の餘毒を增さば
民の疾苦は益すと雖も減ぜざるを以てなり然れど
も幸にして袁策は行はれざる可し何ぞや韓廷の弊
政全く除かず人民全く亂を思はざるに至らざれば
我國決して兵を撤す可らざればなり抑我國の出
兵は國旗國民の自衛なり而して亂軍烟散すと雖も
決して亡滅に非ず弊政革まらずんば則何の時か
再び亂れざらん韓廷枯槁內亂猶且戡定する能はず
何を以てか外國の使臣商估を保護せん危懼是れよ
り甚しきはなし弊政十年除かずんば十年兵を撤す
可らず百年除かずんば百年撤す可らざるなり彼れ
或は責むるに天津條約違反なるを以せん乎然れど
も所謂天津條約に禁ずる所の者は事後の留防のみ
變亂重大の事あり乃ち兩國知照出兵し事定まれば
撤兵して留防せざる者是なり抑弊政にして革ま
らずんば變亂復生せん事知る可し故に弊政革まら
ざる限は十年廿年猶變亂重大の日の如し而して我
れ旣に知照を經て兵を出す變亂未だ定まらざる者
十年廿年常に此に留防す何の違約か之あらん彼れ
烟散を以て平定と爲す故に此の說あるのみ然れど
も彼れ執りて動かずんば則ち宜しく條約を雲烟に
附すべきのみ自衛の道を以て尾生の信に代ふるは
國家の事に非ず自存の爲に區區一片の條約を破毁
するも天下其れ孰れか能く之を禦がん

然れども是れ固より予の想像のみ說未だ輒く信ず
べからず而して大勢未だ知る可からざるなり予韓 に入りてより日猶淺し見聞する所の者も亦多から
ず殆んど廬山中の感あり詳と確とは日を經る久し
くして勢を審かにするも熟するに非ざれば得べ
からず (廿二日午後二時仁川客舍)

●朝鮮事變 (六月二十一日京城發)
第十報 特派員 山本忠輔

屬邦論 東學黨の擾亂鎭靜し官軍今や歸途に就
きたり然れども之を以て東徒全く滅亡せりと爲す
は▣れり東徒の鎭靜は韓廷より外兵借來の事を
聞き其敵し難きを知りて一時其踪跡を湮滅せしに
過ぎず機會を待ち再び反旗を飜すこと明瞭なりとす
而して今や東徒鎭靜の報あり日淸の交涉將に之よ
り始まらんとす淸廷は十七年の事より日本與し▣
しと爲し朝鮮に對する政略傍若無人にして苟く
も機の投ずべきあらば屬邦の實を明にせんとする
は彼の深く企圖する所たり今回の出兵又其意に外
ならず閔族亦支那の屬邦たるを歡ぶ頃日韓官某曰
く朝鮮は支那の屬邦たり東徒鎭定の爲め淸廷の出
兵ある固より當然なり日本の出兵其意を得ずと以
て韓官の意志を推知するに餘りあり此時に方り我
國義に依りて其獨立を扶持せんとす其困難知べし

大鳥公使 公使は屢次駐韓各國公使を歷訪し各
國公使亦公使を訪うて談ずる所あり外交の祕密固
より測知し難しと雖ども惟ふに朝鮮に對する談判
ならん

淸人退去、淸兵入京の說 袁欽差の家族を始め
在京城支那人の退去するもの日に益多し支那人
退去を以て變事の前兆と爲す者あれども斯は臆斷
たるを免れず試に目下京城の形勢彼我其位置を異
にせば我國人の仁川に下り或は歸國する者多きは
必然なり支那人の京城退去を見て變亂の起る前兆
と爲すは非なり然れども昨今又又淸兵入京の風說
盛なるより昨夜深更余も亦淸公使館の擧動を視察
に赴きたれど果して虛なりき

我軍隊の無事 京城駐在帝國軍人は劍を硏き▣
を扼すと雖ども京城更に敵兵を見ず徒然の餘り南
山の和城に豪嘯し或は擊劍に日を消す新聞記者も
亦通信の材料なきに苦しみ山野を跋涉し或は仁川
に下り歸國の用意を爲す者あり

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