7月8日
朝鮮兵の愚危險の極 二十七日嚮に東學黨征討
の用として全羅道に回送せし火藥は東學黨の鎭定
せし爲め再び京城に送り返へすことゝなり數百函
を龍山に積還すや日本家屋の岸下に荷揚したり朝
鮮兵の暗愚なる火藥の危險を知らざるにや函上に
憇ひ平然として喫煙せり我巡査之を見て大に驚き
直に馳せて朝鮮官吏に其危險を告ぐ官吏は口にそ
の忠告の厚意を謝するも亦恬として制止するの色
なかりしと云ふ笑ふべし
朝鮮兵の震慄 朝鮮兵が漫に我軍規を犯すは每
每なるが同日龍山に於て朝鮮兵二名我陸軍御用船
に乘れり我衛兵直に之を捕へ巡査に交付す暫くあ
りて憲兵及銃に劍せる兵卒五名來り二名の韓兵を
圍みて大隊本部に拘致す朝鮮兵震慄して面色土の
如し然れど故意あるにあらざれば直に放免せられ
たり是より彼等我軍規の嚴肅に怖れて復御用船に
近く者なしと云ふ
後着の日本兵 後着の我兵(其數錄せず)は去二
十七日午後四時頃御用船數隻に搭じ軍艦之を護し
て仁川に來る頃日何者か竊かに我兵數及び軍隊の
擧動を探るとの說あり果して夫等の故か否は知ら
ざれど我兵の上陸は夜中過半を上陸せしめたり而
して上陸後直に京城街道に向ふて出發せり其神速
なるてと驚くべし歐米人等も舌を卷けり目下我兵
の多くは夫の龍山附近に在り
東學黨再起の模樣あり 全州の回復後東學黨四
方に散潰し招討軍も歸途に就き旣に仁川京城に着
せし者數百ありしが今や又全羅道各地に東學黨再
起の形勢あり招討軍再び全州に向ふと云ふ其再起
の地とは全羅道の法聖、靈光、茂長、咸平及全州と
境を接する高山縣なりと云ふ隱現出沒測り難き者
は東學黨にこそ(記者曰く本項略已に電報ありし
も存錄す他此類多し)
淸軍又來る 淸兵五百更に牙山に來る猶續續來
韓の模樣あり牙山の淸兵四百餘東徒鎭定の爲め全
羅道に發向せしは事實なるが如し支那兵の亂暴に
は牙山縣民大に之を憂ふ少しく小言を云へば直に
拘致して笞刑に處すと云ふ